加えて、より注目しておきたいポイントとして、「論理国語」に関する問題へと直接繋がっていくようなご指摘も納富さんはされています。以下、新書から引用します。
“そもそも「論理」と訳される「ロジック(logic)」という言葉は、ギリシア語の「ロギケー」を語源としています。これは本来「ロゴスのテクネ―」、つまり、ことばの技術を意味します。ですから、ある意味では、ことばに関わる以上はすべて論理だということになります。”
“別に論理という言い方をしなくても、小説であろうが詩であろうが、広い意味では、ことばをきちんと理解して使っていくことはすべて論理です。他の先生方の議論でも言及されていたニュアンスだとか、コミュニケーションだとか、そういうものも全部、広い意味での論理に含まれます。”
引用部分だけを読むとちょっと言葉足らずに感じるかもしれませんので、是非とも章の全体を読んでいただきたいのですが、これはとても重要なポイントだと私は思います。
そもそも、「論理的な文章」という表現自体がおかしいんですね。文章として成り立っている以上は、そこには自然と論理が生まれる。あるいは、読む側は自然とそこに論理を読み取ろうとするはずです。そこで色々な相克が生まれるわけです。つまり、「論理」のあり方にも文章や表現ごとに多様な形があり得るのであって、論理には狭い範囲の「型」がある、といったような発想はあまりにも偏っている気がしてならない。
一方で、論理国語という発想を生んだ教育行政の方の危機感も、わからなくはないんです。つまり、「最近の若者はろくに手紙も書けない」だとか、「メールも誤解して、文章が全然読めないじゃないか!」という焦りの気持ちはよくわかります。私も「ちゃんと読んでくれよ……」という気分になることも無いわけではない。もっと言うと、私自身も「あっ、間違えた! ちゃんと読めてなかったじゃん」ということもあるわけですね(笑)。
でも、そこで「文章が論理的であるかどうか」という方向に考えてしまうと、なんだかズレていくような気がするんです。
あえてフォローをしておくならば、恐らくここで「論理的な文章を読ませたい」と主張している方々が念頭に置いているのは、「ある程度明晰に書かれた文章」くらいのものでしょう。つまり、わかりやすく書かれた文章をちゃんと読むことができて、かつ自分でもわかりやすい文章をきちんと書ける。そんなレベルのことを言っているんじゃないかと思うんですね。
あるいは、もうひとつの可能性としては、恐らく「論理らしさ」みたいなものをすごく出している文章、というぐらいのもの。どうも新・共通テストのプレテストの問題を見ていると、そういう意図もあるのかなと感じられます。
「論理らしさを出している文章」とはどういうものか。すごく単純なレベルでいうと、“したがって”だとか、“ゆえに”とか、“しかるに”など、要するに逆接や順接、理由説明などを示す語をわかりやすい形で使った文章をもっと読んで、自分でもそういうことばを使えるようになりましょう、ということなのかもしれません。確かに国語の指導要領解説を見ると、そんなことも書いてあるんですね。「接続詞の使い方、大事です」と。
それも決してわからなくもない。ある程度は重要なことだと思うんです。でも、そこで少し立ち止まって考えてみたい。実は、本当に明晰でわかりやすい文章って、そういう形式的な“しかるに”とか“それゆえに”などの語に依存していないんですね。
別の言い方をすると、そういう種類のロジックの形式にすごく依存している文章は確かに存在します。それこそ駐車場の契約書であったり、法律の文章というのはすごく事々しく、わざとらしいほどにそういう語に依存しているんです。ところが、そういう形式に依存しているがゆえに、ある意味で文章が非常に雑になってしまっている。
本当に上手に書けば、そういう形式に依存していなくても、その論理の展開そのものが伝わるように表現できるはずなんですね。そこにどうも、ちょっと根本的な勘違いがあるのかなという気がします。
もちろん、そういう“しかるに”とか“しかし”とか“ばってん”だとか、そういうことばを使えるようにしなければならないという気持ちはわからなくはないので、それは練習しても良いと思います。でも、そういう語をわざとらしく使っている文章を沢山読ませれば、それで論理の力がつくというのはまったくの勘違いだと思います。
ただし、こんなふうに文句ばかり言っていても仕方がないので、じゃあどうすればいいのかという建設的なことを少しだけ述べておきます。やはり重要なのは、「ことばの“形”」にもっと注目する、ということになるんじゃないかなと思うんです。
接続詞の使い方というのは、結局は“形式”の問題です。つい「論理国語」みたいな呼び名をつくってしまった方々が目指しているのは、実際は「論理的な文章」という変なくくりをつくることではなくて、「“ことばの形式”にもっと敏感になって、ことばを“形式”とともにうまく使いこなせるようにしましょうね」ということだと私は思うんです。
読む時にも文章の「形式性」にきちんと注意が行くようにする。書く時にもその「形式性に繊細な神経を働かせて、自分で表現ができるようになる。そういうことを実は目指しているのではないか。それなのに、変なところで「論理」ということばを使おうとするから、ややこしいことになってしまっている。そんなことをこの納富さんの一節を見ながら考えて、大事なことを言ってくれているなあと感じ入ってしまったわけです。
プロフィール
1966年神奈川県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。1997年、ケンブリッジ大学大学院英語英米文学専攻博士課程修了。専門は英米文学。著書は『文学を〈凝視する〉』(岩波書店、サントリー学芸賞受賞)、『史上最悪の英語政策――ウソだらけの「4技能」看板』(ひつじ書房)、『理想のリスニング:「人間的モヤモヤ」を聞きとる英語の世界』(東京大学出版会)など。