この本の中でも書きましたが、特定の言葉をわざと間違った意味づけで用いる政治家がいます。たとえば「日本」という言葉。「南京虐殺を事実だと認めたり、慰安婦が奴隷的境遇にあったと認めたりすることは、日本の名誉を傷つける」というように。実際、こういうことを政治家が堂々と言って、メディアも「おかしい」と指摘しません。それがメディアに氾濫すると「ああ、そうか。じゃあ自分は日本人だから、こういうのを認めちゃダメなのか」という結論へと巧妙に誘導されてしまう。でも、「日本の名誉を傷つける」という場合の「日本」とは何なのか考えてみましょう。
「大日本帝国」というのは、1945年に戦争が負けるまでこの国を支配していた政治体制ですね。「日本国」というのは、GHQの占領が終わって主権を回復し、今に至る「日本国憲法下の日本」です。この2つの国家体制は価値観が実質的に正反対だったのです。「日本国」では「基本的人権の尊重・国民主権・平和主義」という3つの価値観が憲法でうたわれていますが、「大日本帝国」では正反対だった。国民に主権はなく、平和主義でなく、基本的人権も尊重されない。価値観が全く違うのですが、この全く違う二つの社会を「日本」という言葉でくくってしまうと、両方同じものであるかのように錯覚させられる。慰安婦問題や南京虐殺の非人道性を否定して守られるのは、「大日本帝国の名誉」であって、「日本国の名誉」ではないのです。
逆に、慰安婦が非人道に扱われていたことを「事実であった」と認めた場合、「大日本帝国の名誉」は傷ついたとしても「日本国の名誉」は傷つかないのです。「過去に間違ったことをしていた。我々はもうあんなことをやりません」と明確に認めることによって、逆に「日本国の名誉」を高めることになります。ドイツの例を見ればわかりますが、今のドイツは、国がナチス時代の非人道的行為を反省する博物館を、ベルリンやミュンヘン、ニュルンベルクなどの主要都市に作っている。「悪いのはナチスだった」という責任転嫁ではなく「当時のドイツ国民にも責任はあった」という形で説明している。そして「当時のドイツ国民は、なぜナチスのような価値観を支持したのか」ということも、ちゃんと説明して展示してある。それに対し「そんなものに税金使うな」なんて言うドイツ人はまずいない。いたとしても、ごく少数のネオナチ信奉者だけです。なぜなら、それが国の将来にとってプラスになるからです。同じ間違いを繰り返さないという意味で。それを考えると、大日本帝国時代の非人道的行為を反省の対象とみなして理解し、記憶を促すことに税金を使うのは、全然それは日本にとってマイナスでも何でもない。むしろ、将来にとってプラスになることなのです。
でも、この「大日本帝国の名誉を守ることに賛同する日本人を増やしたい人」というのが、この国にはいろいろなところにいて、特に今の首相の周辺にはたくさんいます。ことあるごとに大日本帝国時代のことを肯定的に取り扱う。「教育勅語はいい教育の教科書だった」とか。とにかく「大日本帝国時代のことを悪く言わない人を増やしたい」と。そして、大日本帝国の名誉を守ることに賛同する日本人を増やすために使われるのが、「日本の名誉」という省略形の言い方なのです。これってどこかで聞いたことありませんか。「日本の名誉、日本人の心を踏みにじる」と。
望月 名古屋市長の河村たかしさんですね。
山崎 そう。あれがまさにこの実例なのです。『歴史戦と思想戦』にも河村氏の名前も出てきますが、彼は「南京虐殺はなかった」という否定論者で、実際にそういう講演もしている。その講演に賛同しますという意見広告が新聞に出たのですが、賛同者に安倍晋三の名前も入っていた。つまり安倍首相はこういうグループの一員なのです。
あいちトリエンナーレ事件で河村たかし名古屋市長が、何で最初あんな言いがかりをつけたかというのも、こういう文脈を踏まえてみると、動機がわかると思います。望月さんは、あいちトリエンナーレ事件についても取材されたそうですね。