─―漱石論も含めて、このところ日本の近代史に関心を寄せられていますね。
姜 以前は、アジアから見た日本という視点の書き方をしていたのですが、たとえばかつての強制徴用工のような歴史問題が日韓間の外交問題として浮上していますが、そうした非人間的な労働を強いられ、最初にその犠牲となるのは日本人です。その人たちが全部置き去りにされて、国家と国家の間の外交問題として、そうした日本の近代化の負の部分がクローズアップされるのは釈然としません。
そうやって、血の通わない国家の中で呻吟せざるを得なかった人が、ますます忘れ去られてしまう。だからこそ、日本の内側に目を向け、その中から日本の近代化の光と影をしっかりと見つめ直す必要があります。
それは韓国も中国も同じなんですよね。やはり内に目を向けていかないと、根本的な問題の解決にはならず、どうしても国家間のある種のつばぜり合いになってしまう。それはかなり不毛な議論です。たとえば、いま韓国では、朴正煕(パクチョンヒ)元大統領の銅像建立をめぐっての議論があります。世論調査では国民の三分の二近くが反対なのですが、残りの三割近くはそれを進めようとしていて、お互いにデモを通じて、ちょっとした小競り合いが起きている。
すでにアメリカでは、南北戦争で南軍を率いたリー将軍の銅像をめぐって、奴隷制を支持した人物の銅像は撤去すべきだというグループとそれに反対するグループが激しく対立した。つまり、アメリカ人自身、奴隷制も含めて自分たちの過去の問題をどう考えるかについてまだ決着がついていない。韓国も同じです。おそらく中国も、将来、天安門事件をはじめとした過去の政治問題について、国内での歴史論争が起きてくると思います。
では、日本はどうなのか。残念ながらそうした動きは微弱で、結局、上からの国家主義的なものによって押し流されてしまいそうです。そういうことを感じたこともあって、この本を書いたわけです。もちろん、ぼくのこうした見方に対して、一部からは批判も出てくるでしょう。しかし、この明治一五〇年、日本の近代一五〇年の歴史をどう引き受けるかによって、実はこれからの日本の国の歩みが大きく変わっていく。国家挙げての「明治一五〇年」をそのまま無批判に受け入れて追随するのではなく、議論の俎上に載せる上でも、今回の本は意味があると思っています。