日本代表ではなく、ボーダー國母和宏として
──それだけ長く海外で生活していると、やはり日本はいろいろな面で窮屈だなと感じることが多いんじゃないですか。
國母 それはありますね。何かというと、すぐ叩くじゃないですか。みんなと同じようにしないとすごい変わってるように思われるけど、別に人と違うから間違ってるというもんでもない。好き勝手やるというのではなく、最低限、人に迷惑をかけなければ、いろんな生き方があっていいと思うんですけどね。僕も勉強はぜんぜんできなかったですけど、今、こうして生活できてますし。
──思い起こせば、2010年のバンクーバー五輪では、公式ウェアを着崩していて國母さんも大バッシングを浴びました。のちにあのときは「スノーボーダーとしてマジメ過ぎた」と振り返っていましたが、これほど価値観の違いがわかる言葉もないですね。
國母 自分が憧れてきたスノーボーダー像が、あの恰好と、態度に出ていた。スノーボードの歴史上に名が残ってるやつらって、悪役というか、やんちゃなイメージがある。世間にあえてケンカを売ったり。スノーボードの文化って、そういうもんだから。注意されるだろうなという自覚はありましたよ。そんなにバカじゃないんで。制服を着崩してたら学校でも注意されるし、それは当たり前のことだけど、でも、俺は日本代表としてではなく、プロスノーボーダー國母和宏として戦うつもりだったから、そこを変える気はありませんでしたね。
ただ、あんな騒ぎになるとは思っていませんでしたけど。
──スノーボーダーは、雪の上だけじゃなく、「生き様」も含めてスノーボーダーなわけですもんね。
國母 葬式に行くときは葬式の恰好があるように、スノーボードにはスノーボードの恰好があるというだけで。日本を出るときから滑ることに集中していたので、ぴしっと着てしまうことで、その感覚が揺らぐのが嫌だった。着崩すところから、俺のルーティーンというか、戦いは始まっていたから。
──当時はインパクトのあるドレッドヘアでしたが、その後は、アフロヘアにしたこともありましたし、丸刈りにしていた時期もありました。今は、短髪のパーマヘアですが、ヘアスタイルの変遷には、どのような意味があるのでしょうか。
國母 少し前までは顔が幼く、短い髪型が似合わなかったので、アフロやドレッドなどの方がしっくりきた。今は顔にかからない長さで、楽にセットできる髪型にしています。冬になって山に入ると3、4か月はそのままなので、常に帽子をかぶってます。普段も美容院は月1回くらいですね。雑誌の取材とか、何かないと行きません。
プロフィール
1988年生まれ、北海道石狩市出身。4歳からスノーボードを始め、2003年、わずか14歳でUSオープンの表彰台に立つ。06年トリノ、10年バンクーバーと2度の五輪出場経験を持つ日本スノーボード界の第一人者。16年に最も権威のあるコンクール「RIDERS POLL 18」で「年間ベストビデオパート賞」を受賞。