対談

マリーナさんを通して、国際政治の裏側、プーチンの特殊性、夫婦の愛…いろいろなものが見えてきました

小倉孝保×長野智子

スパイ組織の長が大統領になる恐ろしさ

長野 この本で克明に描写されている、リトビネンコさんが殺害されるに至る経緯もすごいですね。まるで映画のような世界じゃないですか。

小倉 あれは独立調査委員会が開かれることになって、ようやく情報が出てきたんです。リトビネンコさんがなくなる数日前に、3~4日集中して捜査員が事情聴取をするやりとりは、僕がマリーナさんと知り合った当初には表に出ていなかったんですが、そういうものがあることを彼女は知っていて、それを公開したいということで戦っていたわけです。
 それが今では一問一答がすべて明らかに公開されているし、ネットでも見ることができます。その内容を日本人はもちろん知らないし、イギリスの人たちも、当初はそのような事情聴取が行われていたことを知らなかったと思います。
 彼は11月1日にある場所で緑茶を飲んで、その日の夜から体調を悪くしていくんですが、「これはただの食中毒じゃない、おかしいぞ」と言われるようになったのは、それから2週間以上経ってからです。

1964年、滋賀県生まれ。1988年、毎日新聞社入社。カイロ支局長や欧州総局長、外信部長を歴任して現在、論説委員兼専門編集委員。英外国特派員協会賞や小学館ノンフィクション大賞、ミズノスポーツライター最優秀賞を受賞。主な著書に『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』『十六歳のモーツァルト 天才作曲家・加藤旭が遺したもの』『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』『35年目のラブレター』など多数。

長野 リトビネンコさんはロシアにも想像できなかったほどの体力の持ち主で、健康でタフな人だったから、死の真相が明らかになった、ということですよね。

小倉 そこがプーチンの誤算だったと思うんです。具体的に計画をしたのは諜報組織の人だと思うんですが、その人たちに「この暗殺方法なら絶対明らかになりませんから」みたいなことを言われてプーチンは承認したんじゃないか……、というのはあくまで僕の想像ですけれども。

長野 私も当時、このニュースを見ていたし、自分自身も報道に関わっていたはずなんですが、ここまでの具体的な細かい事情は知りませんでした。実行犯とされている2人の滞在先や、帰国便の機内からも放射性物質のポロニウム210(註:半減期は138日)が検出されていたのには驚きました。つまり、彼らも放射性物質を持たされていると知らされていなかったのでしょうし、きっと健康を害していますよね。

小倉 実際に被爆していますから。だから「そんな危険なものをなぜ我々が持って移動しなければならないんだ。自分たちも被害者なんだ」というのが彼らの言い分です。
 おそらく、「これは毒性のもので、口に入れさせろ」くらいのことは指示されていたのでしょうが、放射性物質だということは知らされていなかったんだと思います。そうでなければ、簡単にホテルの排水溝に捨てるようなことはしなかったでしょうし、そもそも放射性物質を持ち歩くなんて暗殺方法を引き受けなかったでしょう。

長野 そうですね。この部分は、読んでいて本当に恐ろしいと思ったんですが、放射性物質を持たせて殺してこいと指示を出して、結果的にあちこちにまき散らしたわけで、ひとつ間違えれば、本当に他の被害が出ていたかもしれませんよね。

小倉 だから、イギリスもすごく慌てたんです。ここはちょっとイギリスが甘かったところだと思うんですが、11月1日の夜にリトビネンコさんが体調を悪くして最初に救急車を呼んだ時に、「インフルエンザのようなので、自宅で静養するように」と言って入院させていないんです。ロシアから亡命してきて、体調を崩す直前までプーチン批判をしていた人ですよ。しかもその前月には、ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤさんがモスクワで暗殺されているんだから、もう少し緊張感があっても良さそうなものですが、実際に緊張感が高まっていったのは、リトビネンコさんの体調がどんどん悪化してからです。

長野 ロシアを離れてイギリスで暗殺するなんていう行為はしないだろう、という安心感も大きかったのかもしれません。

小倉 イギリス国籍も取得しているし、イギリス人を殺すというのは大変なことだ、と考えるのが普通かもしれませんね。確かにそれは、亡命した人がみんな口を揃えて言うことでもあります。

長野 最初に言ったように、この本からは本当にいろんなことがわかるんですが、プーチンという人の〈裏切り者〉に対する執念は、我々の想像を超えるとんでもない執拗さというか、恐ろしさですね。

小倉 そこが、日本人にはたぶん理解しづらいところだと思います。
 この事件の後にも、毒を盛られたとされる事件がいくつも起きているじゃないですか(アレクセイ・ナワリヌイ氏が2020年に機内で体調を崩した事件など)。ロシア政府やプーチンは、そういうことすれば自分たちが疑われて批判されるであろうことは、おそらくわかっているんだろうけれども、長野さんが指摘するように、それよりも〈裏切り者〉を徹底して排除するという意志のほうが強い、ということなんですよね。

長野 KGB、つまり今のFSBはそういう論理の人たちばかりなんですか?

小倉 おそらくそうだと思います。この本ではKGBの元二重スパイだったゴルジエフスキーさんにもインタビューをしていますが、この人自身がソ連軍事法廷で死刑判決を受けていて、「諜報の世界では、組織を裏切ったとたんに死刑になるんだ」と言っていました。
 リトビネンコさんが国内で自分の所属していたFSBを批判することも危険だし、外国に出てからも、ポリトコフスカヤさんの死亡はプーチンの指図だとマイクを持って喋っている。そのような行為は危険きわまりない、とゴルジエフスキーさんははっきり言っていました。

長野 今、ウクライナで起きていることも含めて、プーチンやロシアのやることに対して日本人はどうしても「何で?」と思ってしまうんですが、小倉さんのこの本を読むと、「彼らは我々と常識の物差しも、行動原理も違うんだ」ということがよくわかってきます。

小倉 本の中で繰り返し強調していることなんですが、多くのロシア人から、「プーチン大統領は歴代のソ連・ロシアの指導者とは全く違うんだ」ということを何度も聞きました。たとえばエリツィンにしてもゴルバチョフにしても、歴代の指導者はみんな、共産党の中で偉くなってきた人たちです。ところが、プーチン氏はそのような枠から完全に外れた、KGB畑を歩いてきてトップに立った人物です。外国の独裁政権で、軍出身で大統領になる例は多いですよね。でも、スパイ組織の長が国を率いている例はおそらく他にないだろうし、その怖さがあらわれているような気がするんですよね。

次ページ 日本人には理解しがたいプーチンとロシアのメンタリティ
1 2 3 4

プロフィール

小倉孝保×長野智子

小倉孝保(おぐら・たかやす)

1964年、滋賀県生まれ。1988年、毎日新聞社入社。カイロ支局長や欧州総局長、外信部長を歴任して現在、論説委員兼専門編集委員。英外国特派員協会賞や小学館ノンフィクション大賞、ミズノスポーツライター最優秀賞を受賞。主な著書に『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』『十六歳のモーツァルト 天才作曲家・加藤旭が遺したもの』『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』『35年目のラブレター』など多数。

長野智子(ながの・ともこ)

上智大学外国語学部英語学科卒業後、アナウンサーとしてフジテレビに入社。1995年に渡米し、ニューヨーク大学・大学院において「メディア環境学」を専攻。2000年4月より「ザ・スクープ」(テレビ朝日系)のキャスターに抜擢され帰国。「朝まで生テレビ!」「スクープ21」「報道ステーション」「報道ステーションSUNDAY」「サンデーステーション」のキャスターなどを経て、現在は国連UNHCR協会理事を務めながら、国内外の現場へ取材の為に足を運ぶ。また、女性国会議員の数を増やすことを目指す、超党派国会議員による「クオーター制実現のための勉強会」の事務局長、 2024年4月1日より、文化放送「長野智子アップデート」(月~金15:30~17:00)のパーソナリティも務める。

集英社新書公式Twitter 集英社新書Youtube公式チャンネル
プラスをSNSでも
Twitter, Youtube

マリーナさんを通して、国際政治の裏側、プーチンの特殊性、夫婦の愛…いろいろなものが見えてきました