日本人には理解しがたいプーチンとロシアのメンタリティ
長野 この本にまとめるまで、小倉さんはかなり長い時間をかけて、マリーナさんをはじめこの事件の取材をしてきたわけじゃないですか。その間に取材したことは、ずっと書き溜めていたんですか?
小倉 最初にも言いましたが、マリーナさんと最初に会ったのが2012年です。その後も「この事件って何だったのかな……」ということはずっと頭の隅にあって、彼女とお茶を飲んだりするときも、「全然構わないから何でも録って」と言われていたので、いつもレコーダーを回して、時間がある時にその文字起こしはずっとやっていたんです。それが大量に溜まっていたし、その後にも調査委員会や公聴会の記録などが公開されているので、その整理をしながら、「これ、実は結構貴重なものだよなぁ」と思ってはいたんです。でも、すぐに書かなければいけない記事などもあったので、結果的に遅れてしまったという面もあるんですが。
長野 だけど、実際に本が出てみると、じつは今がベストタイミングだった、という感じはしませんか?
小倉 きっかけはほかにもいくつかあって、ひとつは、僕が帰国して外信部長をしていた5~6年ほど前だったかな、イギリスでリトビネンコさんの件とよく似た事件があったんです。元諜報機関員が公園で毒を盛られて、幸い亡くならなかったんですが、娘さんとふたりで殺人未遂に遭ったという事件です(註:2018年3月、英国ソールズベリーでセルゲイ・スクリパリ氏と娘が神経毒による毒殺未遂に遭った事件)。
その事件があった時に、東京のイギリス大使館の知り合いから「できるだけ早く会いたい」と、朝早くに連絡がありました。大使館の人が「すぐに会いたい」と言ってくることは珍しいんですが、「午前中なら時間がありますよ」と言うと、9時に会社まで来てくれたんです。その人曰く、「イギリスで発生したこの事件について、プーチンを批判してロシアの外交官を国外退去させてないのはG7で日本だけだ。私たちは外務省や首相のルートを通じて訴えかけてきたけれども、(当時首相の)安倍さんはプーチンとの関係に配慮しているのか、日本だけがやってくれない。だから、その記事を書いてくれとは言わないけれども、事情は理解してほしい」ということでした。
日本は、例えば北朝鮮がミサイルを撃ったとか、核開発をしている時にはG7で「これは国際社会全体の問題だから共同声明に入れてくれ」と盛んに言うわりに、このような出来事がヨーロッパで発生しても、「あ、そうなの。ヨーロッパの話だね」みたいな感じで、熱意がワンランク下がってしまうんですね。そのイギリス大使館員は「表に出せない情報も含めて日本の外務省経由で政府にすべて明らかにし、ロシア政府がやったことは間違いないという証拠資料も揃えて説明をしています。だからドイツもフランスもアメリカも批判してくれているんです」と説明をしてくれました。
僕はリトビネンコさんの事件で、調査報告書や独立調査委員会の結果を見ているので、「なるほど、イギリスはそういう情報や具体的な証拠を持っていて、それを日本政府にも示したのだろう」と思いました。でもその時に、日本政府はロシアに対して十分な批判をしなかったんです。
そんなこともあったので、日本という国はプーチン氏に対する見方が甘いのではないか、という思いが、ずっと気持ちの奥底にありました。それからしばらくして2022年にロシアがウクライナへ侵攻したときに、「やはり今、書かなければいけない。書きたいな」と思った、というのが大まかな経緯です。結局、構想12年になってしまいました(笑)。
長野 ウクライナ侵攻がない状態でこれを読んでいたなら、なるほどと思わない人もきっといたでしょうね。あの侵攻があった今、これを読むと「だからか……」と腑に落ちることがたくさんあるじゃないですか。今の視点から見るからこそ納得し理解できることや、知らなかったことも、たくさんここに書かれていると思いました。
小倉 それとね、読んでくださった長野さんなら分かると思うんですが、西側諸国も含めた国際政治の酷薄さも、この本では描いています。夫の命を理不尽に奪われたマリーナさんをサポートしていたはずのイギリス政府は、ある時から内政事情の変化で「自分たちはロシアと仲良くしたいんだ」という姿勢を鮮明にして、むしろ彼女たちの運動をやめさせようと対立していく。プーチン政権は非常に危険だとは思いますけれども、先ほど長野さんが言及していたように、民主主義を標榜しているはずの国家や国際社会も簡単に掌を返して裏切るようなことをするわけですよね。
長野 本当ですね。個人の戦いが国の利益に阻まれていくじゃないですか。プーチンはもちろん悪いですけれども、彼だけが悪くて西側諸国は悪くないのかというと、決してそうじゃないことがたくさん見えてくる。
小倉 庶民の視線から見れば、国営だった企業が全部オリガルヒ(新興財閥)に奪われて富が極端に偏在し、その偏った企業の富をプーチンが取り戻して是正した形になってるわけです。だから、一部のロシア人の中には「プーチンはよくやった」という、むしろ「リトビネンコは何をたてついているんだ」みたいな人もいると思うんですよね。
さきほど長野さんは、モスクワにマクドナルドができました、と現地から実況したとおっしゃっていましたが、それは何年頃のことですか?
長野 当時の私はバラエティアナウンサーだったので、報道のレポートではなかったのですが、……思い出した! 特番で私が現地から中継したんです。私と三枝成彰さんが司会で、市内をレポートしたんです。マクドナルドができましたとか、お店には野菜があまりありませんとか。
小倉 では、経済が冷え込んでいた時期ですね。でも僕、実はロシア一回も入ったことがないんですよ。
長野 エッ、そうなんですか!?
小倉 僕は取材や仕事でいろんな国に行きましたが、ロシアは一度も行ったことがないんです。イギリス駐在時、当時のロンドンにはものすごく大きなロシアコミュニティがあって、ロシア人もたくさんいたんです。そこを取材していると、「モスクワに一度行った方がいいよ」とよく言われたし、今回の取材でもロンドンのロシア大使館に取材依頼を出したんですが、全然返答がなかったんです。
長野 現地に行ったら、出された飲み物を絶対に飲めないやつですよ、それ(笑)。
小倉 そうそう(笑)。「今、こういう取材をしています」とか「リトビネンコさんとマリーナさんのことを本にしたいんだ」という話をいろんな人にした時にも「お前、それで身の回りは大丈夫か」と言われたりもしたんですが、僕はリトビネンコさんと違ってKGBの出身で組織を批判しているわけではないので、プーチンから〈裏切り者〉呼ばわりされるいわれもありません。僕レベルの者を相手にしていたら、世界中で1億人くらいチェックしなければなりませんよ。
長野 リトビネンコさんだって、まさかそこまでプーチンに狙われているとは思っていなかったでしょうね。
小倉 思っていなかったかもしれないですね。実際に、ロシアの政治や歴史の専門家でも、諜報の世界の事情を知らない人ほど「リトビネンコはそんなに大物じゃない」「リトビネンコを暗殺する値打ちはどこにあるの?」「彼を殺してもマイナスしかないよ」と言っていましたから。
プーチンにとってリトビネンコという人物はそこまで脅威を感じるほどの存在ではない、と言われると、僕も「なるほど。そりゃあそうだよな」と納得しかけたこともあったくらいです。
長野 まさに、リトビネンコさん自身がそんな感覚で捉えていたたんじゃないですか。だから、毒を盛られていると考えずにお茶を飲んでしまったのかも。
小倉 だって彼の友達の、チェチェン人指導者のザカエフさんや、二重スパイだったゴルジエフスキーさんや、要するにプーチンにとっては目の上のタンコブのような存在で、リトビネンコさんよりも狙われてしかるべき人はたくさんいるんですよ。でも、その人たちを狙わずに彼が狙われたのはおそらく、KGBを〈裏切った〉から、ということなんだと思います。その論理は、なかなか他の人間には理解できないですね。
長野 取材の過程で、身の危険を感じることはありませんでしたか?
小倉 うーん、恐らくなかったと思うんですけど……。でも、危険って自分のごく身近に迫っていたとしても、実際にやられない限りは気づかないものじゃないですか。だから、今日のこの対談後に、もしも僕が浜松町の交差点で死んでいたら、「あれはそうやったんか……」と思ってください(笑)。
長野 もしそうなったら私は言い続けますよ、あれは絶対にプーチンの仕業です、って。
プロフィール
小倉孝保(おぐら・たかやす)
1964年、滋賀県生まれ。1988年、毎日新聞社入社。カイロ支局長や欧州総局長、外信部長を歴任して現在、論説委員兼専門編集委員。英外国特派員協会賞や小学館ノンフィクション大賞、ミズノスポーツライター最優秀賞を受賞。主な著書に『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』『十六歳のモーツァルト 天才作曲家・加藤旭が遺したもの』『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』『35年目のラブレター』など多数。
長野智子(ながの・ともこ)
上智大学外国語学部英語学科卒業後、アナウンサーとしてフジテレビに入社。1995年に渡米し、ニューヨーク大学・大学院において「メディア環境学」を専攻。2000年4月より「ザ・スクープ」(テレビ朝日系)のキャスターに抜擢され帰国。「朝まで生テレビ!」「スクープ21」「報道ステーション」「報道ステーションSUNDAY」「サンデーステーション」のキャスターなどを経て、現在は国連UNHCR協会理事を務めながら、国内外の現場へ取材の為に足を運ぶ。また、女性国会議員の数を増やすことを目指す、超党派国会議員による「クオーター制実現のための勉強会」の事務局長、 2024年4月1日より、文化放送「長野智子アップデート」(月~金15:30~17:00)のパーソナリティも務める。