個人が国と対峙する際の武器は法律しかない。法の整備は大切。
長野 2012年からイギリスに赴任してマリーナさんを取材するようになって以降、毎日新聞で記事化したことはなかったんですか?
小倉 一回、結構大きめの記事を書きました。たしか、独立調査委員会ができたタイミングだったかな。それは英文に翻訳して、マリーナさんに渡しました。その後もずっと付き合いは続いているし、僕の頭の中ではいずれ本にしたいと考えていたから、彼女にもその話はしたけれども、日本の新聞は何かの出来事が起こらないと記事化するのが難しいんですよ。そういうこともあって、そのままになっていたところはありますね。
長野 マリーナさんも、「本、出ないな~」と思っていたでしょうね。
小倉 「あれどうなってんねん。あれの録音どないなってんの?」みたいな気持ちは、きっとあったと思います(笑)。
でも、その後、マリーナさんの話はドラマにもなったし、BBCもドキュメンタリー番組を制作して、ものすごく大きな存在になっていったんです。だから、「日本で本にならなくてもいいや」くらいの感じだったかもしれません。
長野 じゃあ、彼女はまだこの本を読んでいないんですか?
小倉 2週間ほど前に、「送り先の住所を教えてください」とメールを送ってから、そういえば返事がまだ来ていないですね。彼女にしてみれば「送ってきても、日本語を読めないしな」と思っているかもしれません。
長野 翻訳してほしいですよね。イギリスの人たちにもたくさん読んでほしい。
もうひとつ、この本を読みながら思ったことがあったんですが、本書のマリーナさんもそうだし、ウクライナ侵攻の際にも、戦地に送られたロシア兵の奥さんやお母さんたちがデモをして、プーチン氏がそれに頭を悩ませている、みたいな報道があったじゃないですか。やっぱり、それを思い出しますね。
マリーナさんの夫や家族に対する愛の強さは、あれだけの為政者も困らせる。それと同様のことがウクライナ侵攻でもあったので、私たちに残された手段はもはやそれしかないのか……、と思いながら読んでいました。
小倉 僕もこの本の最後で、もう一人のマリーナさんが生まれた、とナワリヌイ夫人に少し言及しましたけれども、彼女も夫が獄中で殺されて本当に怒っていました。
自分の過去の著作を振り返ってみても、特に自分で意識したわけではないんですが、強い女性を取材する機会は多かったように思いますね。
長野 男とひとくくりにしてはいけないんですが、男性の戦争って自分のエゴやプライドのために起因することが多いように感じます。一方で、女性たちの戦いって、誰かを守ろうとしたり、誰かのために立ち上がる傾向があるというか。この本からは、とんでもない人たちに立ち向かう時代の象徴としての女性、という印象を受けましたね。
小倉 実は、夫婦愛を描きたかった、というところもあるんです。国と国との戦いとか、独裁者と対峙して云々となると、一般の読者からは遠い話になっちゃうじゃないですか。そこを自分たちの問題として感じてもらうには、夫婦愛という切り口がすごくいいんじゃないかと思ったんです。彼女が衰えていくサーシャ(リトビネンコ氏の愛称)を見ていて、最後に彼が発した言葉が「愛してるよ」というひとことで、そんなふたりの愛情の機微もやっぱり書き込みたかったんですよね。
個人という存在には、残念ながら力はない。でもマリーナさんがラッキーだったのは、国際法には力があるんですよね。イギリスは独立調査委員会を設置するための法律が整備されているし、欧州にも人権条約がある。そういうものを駆使することで、イギリスでは事実を明らかにすることができるし、欧州人権裁判所を動かすこともできる。当時内務大臣だったテリーザ・メイが「調査委員会なんて作る必要はない」と言っていたものを、英国の裁判所がひっくり返しているんですから。
だから、法律は無力じゃないし、個人が戦うときには武器になる。それが、彼女の戦いを通してわかることだと思いました。
長野 まともな民主主義国家である証拠ですものね、司法がちゃんと独立し、個人が法律で守られることは。
小倉 僕たち個人や小さい集団が、国や為政者という大きな存在に対して「いや、違うぞ」と言うときの武器って、法律しかない。だから、平時から法律をしっかりと整えておくことが大切なんだと思います。
マリーナさんだって、彼女は専業主婦だったから、お金も持っていないし、何の力もない。リトビネンコさんが死ぬまで、パソコンだって触ったことがなかった人ですから。子供の送り迎えや料理を楽しんでいた人なのに。
長野 そんな彼女の決意を支えてきた周囲の人たちも、素晴らしいですね。
小倉 そうなんですよ。彼女を支えた人たちのインタビューの部分は、僕も楽しみながら書きました。
長野 いや本当に素晴らしい本なので、たくさんの人に読んでほしいですね。さっきも言いましたが、英訳してイギリスで出版されるといいなと思います。
小倉 長野さんの『アップデート』もとても面白いので、多くの人たちに聴いていただきたいと思います。僕も2週間に一度、お邪魔していますから。
長野 ありがとうございます。また番組でもよろしくお願いします(笑)。
取材・文/西村章 撮影/五十嵐和博
プロフィール
小倉孝保(おぐら・たかやす)
1964年、滋賀県生まれ。1988年、毎日新聞社入社。カイロ支局長や欧州総局長、外信部長を歴任して現在、論説委員兼専門編集委員。英外国特派員協会賞や小学館ノンフィクション大賞、ミズノスポーツライター最優秀賞を受賞。主な著書に『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』『十六歳のモーツァルト 天才作曲家・加藤旭が遺したもの』『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』『35年目のラブレター』など多数。
長野智子(ながの・ともこ)
上智大学外国語学部英語学科卒業後、アナウンサーとしてフジテレビに入社。1995年に渡米し、ニューヨーク大学・大学院において「メディア環境学」を専攻。2000年4月より「ザ・スクープ」(テレビ朝日系)のキャスターに抜擢され帰国。「朝まで生テレビ!」「スクープ21」「報道ステーション」「報道ステーションSUNDAY」「サンデーステーション」のキャスターなどを経て、現在は国連UNHCR協会理事を務めながら、国内外の現場へ取材の為に足を運ぶ。また、女性国会議員の数を増やすことを目指す、超党派国会議員による「クオーター制実現のための勉強会」の事務局長、 2024年4月1日より、文化放送「長野智子アップデート」(月~金15:30~17:00)のパーソナリティも務める。