プラスインタビュー

その場所には何があったのか―― 場所の記憶を掘り起こし、未来につなぐ建築 1

建築家・田根剛インタビュー
田根剛

 パリを拠点として活動する田根剛は、日本を代表する若手建築家のひとりだ。彼の名前が広く知られるようになったのは、2005年から2006年にかけて行われたエストニア国立博物館の国際コンペからだ。第二次世界大戦後にソ連を構成する共和国のひとつになったエストニアは、1991年のソ連崩壊直前にラトビア、リトアニアと共に独立を宣言。国立博物館の建設は、国立美術館の建設、オペラハウスの設立と共に独立時の公約のひとつで、新しい国民国家の文化的・歴史的アイデンティティを象徴する国家的プロジェクトだった。

 田根はイタリア人のダン・ドレル、レバノン人のリナ・ゴットメとパリで結成した設計事務所DGT.(DORELL. GHOTMEH. TANE/ARCHITECTS)でこのコンペに応募し、勝利を収めた。当時の田根は26歳。国際的に全く無名の若手3人の設計案が選ばれたことは大きな反響を呼んだ。「メモリー・フィールド」と名付けられたDGT.案では、敷地の傍らにあったソ連時代の軍用滑走路が建物全体のデザインを決定づけている。ミュージアムは、全長1.2キロに及ぶ滑走路の一端をそのまま延長したような形状で、滑走路はコンクリートの大屋根に連続し、その大屋根の端部はエントランスの大きな庇となって空へと消えていく。いわばソ連時代の負の遺産を国家の象徴的な建築と結びつけたデザイン手法には、コンペ直後から批判もあった。また2008年のリーマンショック後の経済危機の影響でプロジェクトは長期の休止状態にも追い込まれた。その後2013年にエストニア政府がプロジェクトの再開を決定。コンペから11年を経た2016年10月、エストニア国立博物館は開館した。田根にとって長年に渡ったこのプロジェクトは、自らの建築家としての成長に絶対に欠かせないものだったという。

「エストニア国立博物館は、本当に滑走路をまっすぐ延ばしただけのシンプルな建物です。けれどもあの博物館を設計するなかで、自分の建築観が大きく変わりました」

 

エストニア国立博物館

エストニア国立博物館  ©Tõnu Tunnel / image courtesy of DGT.

 

 田根は当時をこう振り返った。彼にとってDGT.案は、建築における固有の場所と時間という古くて新しいテーマに再び光を当てる試みだった。建築を成立させる条件としての場所と歴史。ソ連時代の負の遺産を建築に取り込むことによって建築は何をなし得るのか。その問いが彼の建築的思考の出発点になったという。

「最初に思い浮かんだのは『場所の記憶』という言葉です。その意味を掘り下げていき、設計の方法論として意識するまでに数年の時間がかかりました。デザインのプロセスを通じて遠く深い場所の起源にまで遡り、その場所で起こったさまざまな記憶を掘り返していく。それは歴史主義的なアプローチとは微妙に異なっています。単に歴史を参照するのではなく、より微視的に場所の起源を探求し、忘れ去られたはずの断片的な記憶を掘り起こす。そして場所の深層に眠る集合的記憶にまで遡って、そこから遠い未来へと飛躍する可能性を探したいと考えています」

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プロフィール

田根剛

建築家。1979年東京生まれ。ATELIER TSUYOSHI TANE ARCHITECTSを設立、フランス・パリを拠点に活動。2006年にエストニア国立博物館の国際設計競技に優勝し、10年の歳月をかけて2016年秋に開館。また2012年の新国立競技場基本構想国際デザイン競技では『古墳スタジアム』がファイナリストに選ばれるなど国際的な注目を集める。場所の記憶から建築をつくる「Archaeology of the Future」をコンセプトに、現在ヨーロッパと日本を中心に世界各地で多数のプロジェクトが進行中。主な作品に『エストニア国立博物館』(2016年)、『A House for Oiso』(2015年)、『とらやパリ』(2015年)、『LIGHT is TIME 』(2014年)など。フランス文化庁新進建築家賞、フランス国外建築賞グランプリ、ミース・ファン・デル・ローエ欧州賞2017ノミネート、第67回芸術選奨文部科学大臣新人賞など多数受賞 。2012年よりコロンビア大学GSAPPで教鞭をとる。

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