東京オリンピック・パラリンピックの延期にともない、昨年は中止された聖火リレーが、今年は3月25日、福島からスタートする。芸能人や有名人の辞退ばかりが話題の聖火リレーだが、実は初日の福島浜通りコースは、福島第一原発周辺自治体を走るということで注目のエリアだ。ということで、昨年夏に実際のコースを取材しレポートした記事(2020年9月28日)を再掲載する。
※今年のコースは昨年のコースから少し変更されている部分があるので、それについては各コースの写真のところで説明する。
福島第一原発事故からの“復活”を世界中にアピールする「復興五輪」の欺瞞を暴くために、ジャーナリスト烏賀陽弘道氏が聖火リレーコースを走って回る当連載。1回目のJヴィレッジ、川内村、富岡町に続いて今回は、原発立地町である大熊町と、双葉町を挟んでその北側にある浪江町を走ってみた。原発の放射能汚染がもっともひどかったこの地域のどこを走らせようというのか? 実際見てみると、あらためてコース選定のおかしさが明らかになった!
Jヴィレッジ、川内村、富岡町を走ってわかってきた、聖火リレーコースの「復興ショールーム」ぶり。これは、次の大熊町では、よりわかりやすい形であらわれていた。
大熊町は、双葉町と並んで、福島第一原発が立地する「立地自治体」である。原発直近であるだけに、高濃度の放射性物質が飛び散り、甚大な汚染被害を受けた。町民約1万1500人は全員が強制避難。町役場も、2019年3月に避難指示が解除されるまで、約120キロ離れた会津若松市に移転していた。
福島第一原発の南、海ぞいの幅約2キロの一帯は、除染で出た放射性ごみの置き場(中間貯蔵施設)として使われることが決まり、工事が進んでいる。汚染を受けた地帯から運び込まれた黒いフレコンバッグの丘が連なり「黒い砂丘」のように見える。
中間貯蔵施設になる前は、ここも民家や農地があった。そこにいた人たちもほとんどは、すでに土地を国に譲渡したりの手続きを済ませ、戻らないことがわかっている。
原発から3キロの地点に住んでいた男性は、震災のあと、半年に一度ほどの「一時帰宅」でしか自宅に戻ることができなくなった。被曝を防ぐため、強制避難地区への立ち入りは一回5時間限り。強い揺れで棚から落ちた本や調度品、倒れた家具を片付ける時間もほとんどなかった。夫婦で茨城県に避難したまま、かつて住み慣れた家は貯蔵施設の用地に売った。親しんだマンガ本もすべて置いてきた。最後に行って別れを告げたいのだが、家はいつ取り壊されるのかすらわからないという。
2019年3月、大熊町の中で、比較的汚染の軽かった「大川原」という地区が、新しい町役場と住宅団地をつくる場所に選ばれ、ここだけ強制避難が解除された。国は「特定復興再生拠点」と呼んでいる。この区域指定を受けると、新しい街を建設する予算が国からおりる仕組みである。
その「特定復興再生拠点」の面積は、大熊町の場合、約8.6平方キロ。町全体の面積のうち約11%でしかない。逆にいうと、約9割はまだ無人のまま、震災当日のまま時間が止まっている。震災時に1万1505人いた人口のうち、戻ってきたのは 837人。 わずか7.3%である。
かつて、役場など町の中心部はJR大野駅の周辺にあった。「特定復興再生拠点」は、そこから約4キロも離れた、原発とは反対方向の山側にある。ここが聖火リレーのコースである。
実は私は、この大川原地区を何度か取材で訪ねている。「特定復興再生拠点」の造成工事がまだ始まる前のことだ。市街地から離れた、山すそにある田園地帯だったことを覚えている。草むら(原発事故前は田んぼだった)以外には「何もない」場所だった。その場所を、見渡す限り黒いフレコンバッグが埋め尽くしていた。やがてフレコンバッグは海側の原発周辺に造成された貯蔵施設に移されて数が減り、用地造成が始まった。
元の大熊町の中心部からは離れた辺鄙な場所である。自動車以外にアクセスする手段がない。商店はプレハブの仮設コンビニエンスストアが一軒あるだけ。住むには見るからに不便そうである。
プロフィール
うがや ひろみち
1963年、京都府生まれ。京都大学卒業後、1986年に朝日新聞社に入社。名古屋本社社会部などを経て、1991年から『AERA』編集部に。1992年に米国コロンビア大学に自費留学し、軍事・安全保障論で修士号取得。2003年に退社して、フリーランスの報道記者・写真家として活動。主な著書に、『世界標準の戦争と平和』(扶桑社・2019年)『フェイクニュースの見分け方』(新潮新書・2017年)『福島第一原発メルトダウンまでの50年』(明石書店・2016年)『原発事故 未完の収支報告書フクシマ2046』(ビジネス社・2015年)『スラップ訴訟とは何か』(2015年)『原発難民』(PHP新書・2012年)