国の復興予算が大量に流れ込んだため、村は一変した。原発事故当時(2010年度)の予算(一般会計歳入)は、前述のように年44億円ぐらいである。それが、様々な施設が建設される過程で、どんどん膨らんだ。もっとも膨らんだ年は212億3500万円に達した(2017年度)。7年間で5倍近いお金持ちになったことを意味する。
施設建設が一段落した2019年度でも、143億2000万円である。そのうち、村のおカネ(自主財源)は35%にすぎない。65%が国や県からの交付金(依存財源)である。例え話で考えてみてほしい。年収440万円で暮らしていたサラリーマンに1700万円が入り、年収2120万円になった。もし自分にそういう事態が起きたら、どうなるのか。
原発事故後、予算規模数十億円の小さな町村に、巨額の復興予算が国から流れ込み、突然数倍お金持ちになる。新築の施設が出現する。しかし、人口は原発事故前の1〜2割にしか回復しない。この構図は、前回書いた大熊町と酷似している。
利用客は誰も注意を向けないが、「道の駅」から県道をはさんだ反対側には、県立相馬農業高校飯舘分校の校舎が眠っている。パーキングに立ってみると、白い校舎が見える。1949年創立。在校生30〜40人のこじんまりとした高校だった。これまでに3400人あまりの卒業生を送り出してきた。村にある唯一の高校だった。
道の駅からは歩いて5分である。行ってみた。生徒たちが実習をしていた牛舎や温室が残っている。牛舎に入る。まだ飼料と牛糞の匂いが残っている。ウシの名前が黒板にチョークで書かれていた。生徒やウシは今どこでどうしているのだろう。元気にしいてるのだろうか。
温室は地震でガラスが割れ、9年の間に繁茂した植物が中を埋めている。運動部の部室にはサッカーボールや野球のグラブがころがっている。ガラス窓越しに校舎の中を覗くと、図書室だった。本棚に眠ったままの本が、日に焼けている。
原発事故による強制避難のため、生徒たちは福島市内に移ってプレハブ校舎で授業を続けた。が、生徒数が減り、2020年に力尽きるように休校が決まった。9年間、生徒が戻らないまま、校舎は眠り続けた。誰もいない学校で、春になるとサクラが満開になる。
こうして、農業高校は休校になってしまった。対照的なのは「道の駅」から2キロほど南にある飯舘村立の小中学校である。「いいたて希望の里学園」という。現地に立ってみると、気づくことがある。村役場前の交差点を囲む四方に、原発事故後に作られた豪華な施設が集中しているのだ。役場から交差点をはさんで対角線上に「希望の里学園」がある。隣に保育施設。学校から道路をはさんで反対側には、屋内テニス場、ワールドカップ規格の人工芝を張った競技場。
この学校が2020年4月に開校したときには、新聞テレビの取材陣が多数集まって大々的に報じた。文科省・環境省・経産省の政務官や地元選出国会議員が顔を揃え、歌手の岡本真夜が出席して(調べてみたら、高知県出身で飯舘村に地縁はない)、歌「TOMORROW」を披露したとか、子供が一斉に風船を空に放ったとか、いろいろとテレビ映えする工夫をこらした式典だった。制服をコシノヒロコがデザインした。校歌を南こうせつが作曲し、俳人の黛まどかが作詞した。などなど、華やかな話題が満載である。
原発事故まで、村には3つの小学校と1つの中学校があった。原発事故が起きて村人が強制避難になったあと、小学校は隣の川俣町、中学は福島市の仮校舎で授業を続けた。2017年春、6年間の強制避難が解除になった。中学の校舎を改修して、3小学校を統合し、小中一貫の9年制の「義務教育学校」として開校したのが「希望の里学園」である。敷地の隣にはやはり新築の「認定こども園」(幼稚園)がある。
この教育施設一帯の建設に約40億円の予算が投じられている。原発事故前なら、村の1年間の予算44億円に並ぶ金額だ。そうした潤沢な予算を受けた「希望の里学園」には無料の特典が多数ある。屋内プール、コシノヒロコデザインの制服、教材費、給食費、PTA会費、カナダへの研修旅行…。そんないろいろなインセンティブがついている。
なぜそんな多額の予算を投じることができたのか。前述のように、村の予算の数倍の国家予算が投入されたからである。「福島再生加速化交付金」というタイトルがついている。そこには「公立学校施設整備費国庫事業」 「幼稚園等の復号化・多機能化推進事業」という項目があって、学校統合のための校舎の建て替えや屋内運動施設の費用の4分の3を国が負担することが決められている。 「原子力災害により被災した地域の復興を加速するため」という名目だ。
こうした学校や公園の整備に交付金を受けることができるのは「12市町村」だけだ。国や福島県は、原発事故で強制避難が行われた12市町村を「福島県原子力被災12市町村」と呼ぶ。田村市、南相馬市、川俣町、広野町、楢葉町、富岡町、川内村、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村のことである。
では、子供たちは原発事故前のようにこの学校に戻ってきたのか。残念ながら、大人たちの期待したようにはならなかった。被災前の2010年5月には小中全校合わせて541人の子供がいたが、「希望の里学園」は新1年生を含めて9学年65人のスタートだった。その子供たちも、多くは村外に住んで、スクールバスで通っている。タクシーで通学しても費用は村が出してくれる(原発事故で被災した市町村は二重居住・二重住民登録が認められている)。
いろいろなインセンティブを付けても、12%しか回復できなかったことになる。
そもそも、帰還した村人は原発事故前の2割程度である。それも「祖父母世代」に偏っていることも書いた。帰還者の63%が65歳以上。30、40歳代は10%あまりである。新しい学校の華々しいお披露目の陰で、かつて村にあった草野・臼石・飯樋の3つの小学校の校舎はひっそりと眠っている。子供たちが帰らないまま、一部の学校では校舎の解体が始まっている。
飯舘村はじめ原発事故被災地は「祖父母」「親」「孫」の三世代同居が当たり前だった。その家庭が避難で村を離れる。避難解除後も、親世代は、子供たちの健康に万一のことがあってはならないと最大限に警戒するので、帰還しない。子供たちは避難先で6年を過ごすうちに、新しい友だちができ、その場所での生活に慣れる。転校して友達と離れたくない。そんな様々な理由で、親・子供世代の住民は避難前の場所には戻らない。
一方、祖父母世代ら高齢者は「放射性物質が健康に影響してもどうせ寿命」と考える。先祖代々の農地や墓のそばにいたいと望む人も多い。
飯舘村に限らず、原発事故被災地がどこも抱える暗いシナリオがある。帰還者が高齢層ばかりで、その下の世代がいない。ということは、10年、20年と経つにつれ、住民は高齢化し、やがて亡くなる。言い換えれば、ゆっくりとコミュニティが自然消滅していくということだ。そうなってほしくないと祈りつつ、私は暗いシナリオを想像せずにいられなかった。
私がそんな暗いシナリオを想像するのは、ある実例を見ているからだ。隣の川俣町では「子供がいなくなった学校」がすでに現実になっている 。
プロフィール
うがや ひろみち
1963年、京都府生まれ。京都大学卒業後、1986年に朝日新聞社に入社。名古屋本社社会部などを経て、1991年から『AERA』編集部に。1992年に米国コロンビア大学に自費留学し、軍事・安全保障論で修士号取得。2003年に退社して、フリーランスの報道記者・写真家として活動。主な著書に、『世界標準の戦争と平和』(扶桑社・2019年)『フェイクニュースの見分け方』(新潮新書・2017年)『福島第一原発メルトダウンまでの50年』(明石書店・2016年)『原発事故 未完の収支報告書フクシマ2046』(ビジネス社・2015年)『スラップ訴訟とは何か』(2015年)『原発難民』(PHP新書・2012年)