子どもたちは戻らず、町に新しい学校だけが遺された…

五輪聖火リレーコースを走ってみた! 第3回

烏賀陽弘道
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福島第一原発事故からの“復活”を世界中にアピールする「復興五輪」の欺瞞を暴くために、ジャーナリスト烏賀陽弘道氏が聖火リレーコースを走って回る当連載。1回目のJヴィレッジ、川内村、富岡町、2回目の大熊町、浪江町に続いて今回は30キロも離れた山側なのに大きな被害を受けた飯舘村、川俣町である。ここでは復興予算をつぎ込んで、復興を印象付けようという歪んだ政策が進められていた。

 今回の聖火リレーコースは前回の太平洋沿岸部を約30キロ離れ、阿武隈山地の山村に飛ぶ。まずは飯舘村という標高500メートルの高原の村だ。平野部より気候が寒冷なので、原発事故前は稲作より牧畜の盛んな村だった。

 地図を見ると、飯舘村はかつての福島第一原発から半径20キロの「強制避難区域」からは「飛び地」である。6,500人の村人も、原発事故が起きるまで、自分たちが30キロ以上かなたにある福島第一原発と関係があるとは思ってもみなかった。

 しかし運の悪いことに、2011年3月15日の早朝、福島第一原発2号機から漏れ出した高濃度の放射性物質の雲(プルーム)が、海からの風に乗って北西に流れ、山にぶつかったところで雨や雪になって落ちた。ちょうどそこが飯舘村だった。原発直近に近い高濃度の汚染が村を覆い、事故から約1ヶ月後の同年4月22日、国に全員避難を命じられ、それから6年間、村民は自分の家に帰れなかった。政府が「除染が終わった」と強制避難を解除したのは2017年春である。

 私が飯舘村に初めて来たのは、地震・原発事故発生直後の同年4月中旬である。まだ強制避難が始まる前だった。ちょうど村の桜が咲き始めるころだった。おかげで、私はぎりぎりで「まだ原発事故の影響で変貌する前の村の姿」を見たことがある数少ない報道記者になった。

 一言でいえば、飯舘村は美しかった。新緑の黄緑色と山桜の薄墨色が山を染めていた。あぜ道や民家の庭に、黄色いスイセンやヤマブキが咲き乱れていた。点在する赤や青の屋根の農家。それは「日本のふるさと」の原風景のような美しさだった。

2011年秋の飯舘村。木々の緑と青い空が美しい村だった(撮影/烏賀陽弘道)

 行楽地や観光スポットは何もない。中通り地方から浜通り地方へクルマで向かう幹線道路沿いにありながら、足を止める人はほとんどいない。コンビニすらなかった。しかし、それだけに手つかずの自然と、素朴な人々がそのまま残っていた。

 強制避難が始まり、村人はサクラの花の下をバスや自家用車で去っていった。村はからっぽになった。

 しかし、原発から半径20キロ圏内と違って、村は一般人の立ち入りが禁止されなかった。だから私のようなフリーの記者も自由に入り、自由に取材することができた。そうやって、避難から一年間の春夏秋冬の村の自然を写真に記録し、それは『福島飯舘村の四季』(双葉社)という本になった。原発事故以前の姿が美しかっただけに「飯舘村」の名前はマスコミ上で被災地のシンボルのように有名になっていった。

 それ以来、何度村に足を運んだのか、数え切れなくなった。100回近くは来ていると思う。避難した村人を訪ねて、福島市にある仮設住宅団地にも足を運んだ。そうやって村人の話を聞いた。

2011年12月、飯舘村民が避難した福島市松川地区の仮設住宅(撮影/烏賀陽弘道)

 避難の6年間に、村は激変した。最初に国の「除染」が始まった。のべ何万人という除染作業員が村に現れ、住宅地や山肌の表土を剥いだ。はいだ汚染土は黒いフレコンバッグに詰め込まれ、村のあちこちに積み上げられた。黒いフレコンバッグの丘が、かつて田畑だった場所を覆った。前後して、かつて田畑だった場所に太陽光発電のソーラーパネルが次々に建設された。それは村人が田畑の耕作をあきらめ、核ゴミ置き場や太陽光発電に土地を貸したことを意味する。

 除染は道路、民家、学校や農地の境界から20メートルの範囲だけ行われた。村の総面積の15%程度である。除染直後は空間線量が下がったが、またじりじりと上昇している。除染しなかった山林から風や雨に乗って放射性物質が移動してくるからである。除染は表面から5〜15センチの表土を剥ぎ取っただけなので、地下深く染み込んだ放射性物質はそのままになった。それを樹木が吸い上げ、落葉するとまた地表に放射性物質が戻った。

 避難解除後、帰還する村人は伸びない。原発事故当時、6509人いた人口のうち、戻ったのは約1400人、2割程度である。それも高齢者が多い。かつて三世代同居が普通だった村で、息子世代と孫世代は避難先に定住して戻ってこないケースが多いのだ。

 村の風景を一変させたのはそれだけではない。村全体に放射性物質が降ったため、家屋も汚染された。6年の無人の間に建物が荒れ、住めなくなった。そうした建物は解体され、更地になり、やがて新築になった。そんなピカピカのモダンな住宅が次々にできて、ひなびた農村だった村が住宅展示場のようになった。

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プロフィール

烏賀陽弘道

うがや ひろみち

1963年、京都府生まれ。京都大学卒業後、1986年に朝日新聞社に入社。名古屋本社社会部などを経て、1991年から『AERA』編集部に。1992年に米国コロンビア大学に自費留学し、軍事・安全保障論で修士号取得。2003年に退社して、フリーランスの報道記者・写真家として活動。主な著書に、『世界標準の戦争と平和』(扶桑社・2019年)『フェイクニュースの見分け方』(新潮新書・2017年)『福島第一原発メルトダウンまでの50年』(明石書店・2016年)『原発事故 未完の収支報告書フクシマ2046』(ビジネス社・2015年)『スラップ訴訟とは何か』(2015年)『原発難民』(PHP新書・2012年)     

 
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