私は、エリザベータ・トゥクタミシェワと話している。場所はサンクトペテルブルグにあるカフェだ。
大きな窓から、陽がいっぱいに差している。店内には、ケーキやペイストリーがずらりと並んでいる。カジュアルで、飾らない店だ。トゥクタミシェワの「お気に入り」らしい。
「昨シーズンは、私に鮮明な記憶を残しました。肺炎にかかり、二ヶ月という重要な時期を失い、実質ゼロのスタートを切ることになったのです。
それでも、国別対抗戦のフリーで勝てて、数々のトリプルアクセルを成功させることが出来ました。
そういう意味では、上海でワールドチャンピオン(2015年、世界選手権)になったときよりも感動が大きいです。
あのシーズン、私はずっと勝ち続けていて、『ワールドチャンピオン』が大きな驚きとはならなかった。昨シーズンは違います。谷間から這い出て、今の自分になれました。
病後でしたが、皆さまに自分のスケートをお見せできたという実感もあります。実際、大勢の人たちが、私について好意的に語ってくれました。
だからこそ、ファイナルやヨーロピアン、ワールドを勝ったときよりも、ずっと重要なものになったのです。
多くの経験を得られましたし、多くの困難を乗り越えられました。自分に打ち勝つことができたことを誇りに思います」
トゥクタミシェワは、はきはきした口調で話し続ける。とても、フレンドリーだ。
「ただし、今シーズンはさらに重要です。昨シーズンと同じように踏ん張りきれるかどうか。頑張りどころだと思っています」
取材が終盤にさしかかった頃、彼女の携帯が小さく揺れた。彼女は窓の外に目をやり、柔らかく微笑んだ。
そこには男性が立っていた。その人は店に入ってきて、邪魔にならないようそっと近くの席に座った。
プロフィール
宇都宮直子
ノンフィクション作家、エッセイスト。医療、人物、教育、スポーツ、ペットと人間の関わりなど、幅広いジャンルで活動。フィギュアスケートの取材・執筆は20年以上におよび、スポーツ誌、文芸誌などでルポルタージュ、エッセイを発表している。著書に『人間らしい死を迎えるために』『ペットと日本人』『別れの何が悲しいのですかと、三國連太郎は言った』『羽生結弦が生まれるまで 日本男子フィギュアスケート挑戦の歴史』『スケートは人生だ!』『三國連太郎、彷徨う魂へ』ほか多数。2020年1月に『羽生結弦を生んだ男 都築章一郎の道程』を、また2022年12月には『アイスダンスを踊る』(ともに集英社新書)を刊行。