鼎談

第三回「センセイはえらい」とスーフィズム

内田樹先生、スーフィー研究者に会う
内田樹×中田考×山本直輝

ロシア・ウクライナ戦争が長期化する中で、積極的に調停を働きかけている国がエルドアン政権のトルコである。歴史的にロシアと幾度となく戦争を重ね、また近隣国の内戦で生まれた難民を多くかかえるトルコは、ロシアとも西欧世界とも一定の距離をとりつつ独自の立ち位置を示している。
そこで、現在トルコ国立マルマラ大学で教鞭をとる山本直輝氏を迎え、トルコがとっている教育・文化政策、敵対的共存を具現する外交政策、そして現政権に伏流するオスマン帝国以来のスーフィズムの伝統をも視野に入れ、内田樹氏と中田考氏が語り合いました。政治的にも経済的にも隘路に陥っている現代日本にとってヒントの多き鼎談。はたして混迷の世界を切り開く在り方とは?

構成:ヒサマタツヤ


東アジアとスーフィズム

山本直輝 スーフィズムというのは基本的にスーフィーという修行僧みたいな人たちがいて、彼らが実践した修行道です。神学や法学というのは論理で考えるんだけれども、スーフィズムというのは精神統一や修行を通じて「イスラームの味」を味わうためのものだとよく言われるんです。仏教で味得って言うじゃないですか。アラビア語でも全く同じ用語でザウク(味わい)という言葉があります。スーフィズムとは真理の味わいを感じる舌を養う学問だともいわれているんです。

 そして小麦や米など同じ食材を持っていても、それをどのように料理して味わうかは地域ごとに違うように、その真理をどのように味わうかは、個々人によっても異なるし、その人たちが生きている地域によっても異なります。

 フランス人の改宗ムスリムで哲学者のヴァンサン・モンテーユという人が『イスラームの五つの色について』という本を書いているんですけど、イスラームとは厳格でかっちりしたイメージがあるけれども、実はイスラーム自体というのは透明な水のようなものなんだと。水というのは、地域に流れ、その土地の色を反映し、各地の文化を発展させていったのがイスラーム文明で、五つの色というのは、アラブ文化から発して、ペルシャ・インド、トルコ、マレーがあって、アフリカがある。彼が最終的に言いたいのは、次の六番目の色としてヨーロッパのイスラームがあらわれるというのを予言しているんですね。つまり、ヨーロッパにはヨーロッパ独自の「イスラームの味わい方」があるはずだと。

 教義という側面から見れば、タウヒードという唯一一神教の考えはどこに行っても変わらないんだけれども、一なるものをどう表現し、体現するかというのは地域ごとに違うんだと。マレーに行けばタウヒードというのを表現するのに東南アジアの土着文化や建築様式からインスピレーションを得たものを使うこともあるし、トルコに行けば、今度は中東アジアの遊牧民の文化を反映したようなイスラーム文化もあるし、インドに行けば、南アジア的なものもある。

 ただ、『イスラームの五つの色について』もそうですが、イスラーム文明の多様性が語られるとき、東アジアについての言及がないことがとても多いんです。これは今のムスリムにとってもそうだし、西洋人の最大の無知の部分であって、イスラーム文明の偉大さを語るイスラーム学者とか、あるいはイスラーム研究者ってたくさんいるんですけど、東アジアへの視点が抜けている場合が多い。特に中東のムスリムは、基本的に東アジアについて言及する重要性も分からないし、かつ、東アジア人のムスリムがいるというのもあまりピンとこない。東アジアなどイスラームのリテラシーが何もない無知な人たちの土地くらいのイメージしかないんです。

 でも中国のイスラームの歴史を見てみると、一番古いモスクって7、8世紀のものだと言われています。要するに預言者ムハンマドが生きていたか、あるいは亡くなって1世紀以内で、日本でいうと奈良時代にはもうモスクができていると。もともとアラブ系とペルシャ系の商人が中国にずっといたんですけど、それが混血が進んでいって、明の時代に見た目が我々と同じような中国人になって、独自の伝統をつくっていくんです。例えば中国のムスリムたちは漢語を使って彼ら独自のイスラーム古典の伝統を作ったり、建築や書道、武術など中国イスラーム文化を創造したりしました。

 それを考えると、アラブはイスラーム発祥の地なのでおいておくとしても、ペルシャ、インド、アフリカ、マレー、トルコに負けないくらい実は我々の暮らしている東アジアもイスラームをどう表現するかという文化的営為によって培われた語彙がたくさんあって、さらにイスラーム文化と東アジアで融合的な文化も豊富にあるので本来は東アジア人もイスラームのリテラシーが高いはずなんですよ。でも、ヨーロッパも中東のムスリムもそれを完全に忘れているし、我々もそれを忘れているのが現状です。結局、今までイスラームを理解しましょうという本っていくらでも出ていると思うんですけれども、それに描かれたイスラームって結局他者なわけじゃないですか。我々が理解できない他者はいるんだけれども、それを理解するための見方を確立しましょうみたいな。それもすごく重要な試みではあると思うんですけれども、他者っていつまでたっても他者じゃないですか。でも、歴史を見ると実は他者じゃなくて、自分自身の歴史の中に実はイスラームというのはあったんですよ。つまり、私たちが生きている東アジアの文化や語彙で「イスラームを味わう」ことはできるはずなんです。

中田 考 東アジアを一つの文化圏と考えると、そういうことができるわけなんですね。

イスタンブールのアトリエでの日本文化体験イベントにて。トルコの国営放送のインタビュー映像から


修行とスーフィズムの本質

山本 しかも日本人として考えると、日本って、イスラームとの関わりがほとんどない世界的にも例外的な国なので、イスラームやムスリムってずっと異質な存在のままですけれども、アイデンティティーって自分の見方次第でいくらでも変えられるじゃないですか。というところで、自分たちのアイデンティティー、東アジアの中で、東アジア人として位置づけて、かつ、イスラーム文明との関わり方も考えることができるんじゃないかと思っているのが今の自分の問題意識です。

 そこでまたスーフィズムの話に戻ると、井筒俊彦先生たちが紹介したスーフィズムというのはいわゆる神秘哲学の分野で、神秘的な思索を突き詰めると、アッラーさえも超越した、人格神よりもさらに上にあるメタゴッドみたいなものがいるという、そういう東洋共通の神性みたいなのを下敷きにした東洋哲学を打ち立てて、それがヨーロッパで大受けして、世界的にも有名になったんです。

 でも、スーフィズムの古典を実際に読んでみると、結局、アッラーというのはどこまでたっても人格神です。スーフィズムというのはどこまで突き詰めても、人間的な関係を超えた超越的な何かを認知するだけではなくて、あくまで神というのは人格を持っていて、人間というのも一つの人間で、さらに神とアッラーが直接つながるというのは本当に例外的な究極の境地みたいなもので。アッラーという豊かな人格神を理解するには一人の人間はあまりにいびつで不完全な存在に過ぎないのだけど、その修行の過程には必ず弟子を支えて稽古をつけてくれる先生がいます。先生の生きざまを見ながらお弟子さんとかも一緒に修行して、支え合って、二つの不完全なものが完全なものを理解しようとする営み。そういった修行がスーフィズムの本質なんです。

 旋回教団(メヴレヴィー教団)というスーフィーの修行集団がトルコにあるんですが、旋回の修行も確かに神を理解する大切な修行なんですけれども、実はもっと日常的に修行している分野があって、それが料理なんですね。メヴレヴィー料理と呼ばれていて、日本でも精進料理とか、典座といった禅宗のお寺の修行とかあるじゃないですか。

 例えばメヴレヴィー教団にも弟子が毎日入ってくるんですけれども、その人に例えば最初は厨房の床ふきから始めさせて、ちょっとランクが上がってきたらスープづくりとかになっていって、さらにランクが上がっていって師範代みたいな修行集団のナンバー2になると料理長になるんです。メヴレヴィー教団の開祖ルーミーは自分の修行の経験を料理に見立てて、「私は生(なま)であったが、料理され、こんがりと焼けた」と表現しています。自分は自分自身がこの世界というレシピのなかでどのように使われるべき素材なのかも分からない若輩者だったけど、修行によって鍛えられ、そして神の愛によって心身焼き尽くされ無我の境地に至った、という意味だそうです。なのでこの教団にとって厨房で調理される食材は修行者のシンボルなんです。

 まさに永平寺の修行みたいな感じですね。スーフィズムもこうした哲学的思索とは異なる次元の修行文化の中にイスラームにおける大切な教えがたくさんあるんですよね。

 例えばシャーベットってイスラーム文明でできた甘味なんですけど、チレという40日間の断食修行の後に旋回教団の人たちが食べていたんですね。だから、あの甘みというのは、結局、一回世界から隔絶されたような厳しい修行を終えた後にやっと分かる世界の甘みの象徴なんです。そんなに甘味使ってなくて、ちょっとの氷と果汁をちょっと搾ったぐらいなんだけれど、食べるときにこんな甘いものは食べたことがない、というようなことに気づくわけです。

 日本人として、永平寺の修行はNHKのドキュメンタリーを通して見てたりとか、あるいは精進料理の薄味の感じとか、味を実感として知ってたりする我々にとっては結構分かりやすいものじゃないですか、この修行の大切さって。

 スーフィズムというのは頭の中で考える哲学というよりは、どちらかというとこういう世界なんですよね。身体で体験をしていって、世界の甘みであるとか苦みであるとか、あるいは神の愛であるとか神の厳しさというのをいろいろ味わうというところなんです。そして、このスーフィズムの修行という「イスラームの味わい方」は文化圏によってさまざまな「料理法」があって、例えばトルコのメヴレヴィー教団だと料理や旋回舞踏を修行として使うけど、東南アジアではシラット、東アジアでは拳法など武術を修行に取り入れてたりします。スーフィズムは歴史的に様々な文化圏で培われたいろんな修養の語彙や技術を柔軟に取り入れてきました。

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関連書籍

一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教
宗教地政学から読み解くロシア原論 (イースト・プレス)

プロフィール

内田樹

(うちだ たつる)

1950年東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。著書に『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)『日本辺境論』(新潮新書)『街場の天皇論』(東洋経済新報社)など。共著に『世界「最終」戦争論  近代の終焉を超えて』『アジア辺境論  これが日本の生きる道』『新世界秩序と日本の未来』(いずれも集英社新書・姜尚中氏との共著)『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』(集英社新書・中田考氏との共著)等多数。

中田考

(なかた こう)

1960年岡山県生まれ。イスラーム学者。東京大学文学部卒業後、カイロ大学大学院文学部哲学科博士課程修了(哲学博士)。在サウジアラビア日本国大使館専門調査員、山口大学教育学部准教授、日本学術振興会カイロ研究連絡センター所長、同志社大学神学部教授、同志社大学客員教授を経て、イブン・ハルドゥーン大学(トルコ)客員フェロー。著書に『イスラーム 生と死と聖戦』『イスラーム入門』『一神教と国家』(内田樹との共著、集英社新書)、『カリフ制再興』(書肆心水)、『タリバン 復権の真実』 (ベスト新書)、『宗教地政学から読み解くロシア原論』(イースト・プレス)他多数。

山本直輝

(やまもと なおき)

1989年岡山県生まれ。同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。 トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究所助教を経て現在、国立マルマラ大学大学院トルコ学研究科アジア言語・文化専攻助教。主な翻訳に『フトゥーワ―イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)。集英社新書プラスで「スーフィズム入門」を連載(終了。現在新書として編集中)https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/cc/sufism

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