フェノロサと三井寺
さて、フェノロサと三井寺との関係ですが、それは塔頭の「法明院」が中心になります。
一八七八年に初来日した二十五歳のフェノロサは、東京大学などで講師を務めた後、国から文化財保護に関わる依頼を受けて、奈良などを調査で回りました。当時は油絵など西洋美術の概念や手法が日本美術界に大きなショックを与えていたことと同時に、廃仏毀釈(きしゃく)運動の影響もあり、日本の伝統美は軽視される傾向にありました。
フェノロサは狩野派の価値、魅力などの再認識を促し、随筆『美術真説』でも日本の芸術界に多大な影響をもたらしました。坪内逍遥や岡倉天心は、彼の教え子です。一八九〇年にフェノロサはアメリカへ戻り、ボストン美術館の東洋学芸員になりましたが、後に岡倉天心も同じポストを務め、著書『The Book of Tea(茶の本)』は、約百年経った今でも根強い人気を誇っています。
フェノロサは国宝級の作品を数多く集める蒐集家の一人でもありました。
フェノロサと親交のあるボストンの裕福な人物たちは、彼との縁で来日し、美術蒐集に励むことで、日本の美を世界に広めました。その中の一人、ウィリアム・スタージス・ビゲローはボストン美術館の理事を務め、フェノロサと岡倉天心のスポンサーになりました。ボストン美術館は、ビゲローやフェノロサ、天心らの蒐集した膨大な作品の寄贈を受けて、海外ではナンバーワンの日本美術コレクションを有することで有名です。
美術界でよく知られた話があります。ビゲローと天心、フェノロサやボストンの友人たちが、奈良へ調査に赴いた際、国から特別許可をもらい、通常では入れない敷地や境内に入って、たくさんの美術品を見ました。そして正倉院に入った時に、管理人から陶器の破片数点をもらい、後にビゲローがボストン美術館に寄付しました。これが正倉院から唯一、海外に流出した美術品だと言われています。
ちなみに、フェノロサや岡倉天心は東京国立博物館の前身である帝国博物館に所属していましたが、初代館長を務めていたのは旧薩摩藩の町田久成でした。信仰心の深かった久成は、三井寺を中心とした密教を彼らに教え、当時、法明院の住職だった桜井敬徳を紹介しました。ビゲローとフェノロサ、岡倉天心は三人揃って受戒し、ビゲローは「月心」、フェノロサは「諦心」、岡倉は「雷心」という法号を授かりました。その後、ビゲローとフェノロサは法明院を度々訪れては、時雨亭という離れに滞在し、そこで読書を楽しんだり、天台密教の勉強に励んだりしました。フェノロサは一九〇八年にロンドンで客死しますが、彼の遺志によって、お骨は法明院に埋葬されました。ビゲローも一九二六年に亡くなった後、同じ法明院にお墓が建てられました。
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。