ニッポン巡礼 Web版③

知られざる「日本美の聖地」へ

滋賀県・三井寺【前編】

アレックス・カー
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「ニッポン巡礼」の第一歩は、琵琶湖の畔に位置する日吉大社から始まりました。日吉大社は天台密教の比叡山とともに歴史を歩んできた場所ですが、実は同じ旅の中で、原点を比叡山に持つもう一つの重要な寺院「三井寺(みいでら)長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ))にも訪れていました。

 

「山門派」延暦寺と「寺門派」三井寺の六百年抗争

 

 三井寺には、以前から個人的に興味を持っていました。三十年近く前になりますが、明治初頭に日本美術の価値を見直したアーネスト・フェノロサや岡倉天心について調べていた時、三井寺が彼らと深いつながりを持っていたこと、そしてフェノロサの没後に、お骨が長等山の山中にある律院(律宗の寺)の「法明院(ほうみょういん)」に埋葬されたことを知りました。日本の美を追い求めた彼が、最終的に辿り着いたのが三井寺だったのです。

 もう一つ、私には三井寺への大きな関心がありました。それは「近江八景」というテーマです。私自身、室町や江戸時代の書画を蒐集(しゅうしゅう)する中で理解するようになりましたが、近江八景は巻物などでよく扱われている、重要な題材です。その八景の一つに「三井の晩鐘(ばんしょう)」、つまり三井寺の鐘が出てきます。

 こうした理由から、日本美の聖地という側面を持つこのお寺を、以前からずっと訪れてみたいと思っていたのです。

 三井寺の起源は飛鳥時代まで遡るようですが、大きなお寺へと発展したのは九世紀後半で、そこには比叡山の僧だった円珍(えんちん)の存在が大きく影響しています。三井寺という名も彼が付けたものだと言われています。

 最澄が延暦寺を開山した後、比叡山の二人の僧侶、円珍と円仁(えんにん)が中国へ渡って密教を学び、膨大な数の経典、仏具などを持ち帰って、天台密教の普及に努めました。円仁は三代目、円珍は五代目天台座主(ざす)につきました。天台密教は、この二人の働きによって一大宗教へと成長しました。

 しかし八九一年に円珍が没した後、比叡山は二つの宗派に分かれ、対立が激化していきます。九九三年には円珍派の僧がついに比叡山を下りて、三井寺に移りました。それ以来、比叡山延暦寺は「山門派」、三井寺は「寺門派」となって、約六百年に渡って抗争を繰り広げることになりました。比叡山宗徒が何度となく三井寺を焼き討ちするなど、史実に残るだけでも六十回以上の衝突が記録されています。それだけでなく、時として延暦寺と三井寺の武僧連中が同盟を結び、奈良の興福寺を攻めるといった事件もありました。

 山門派と寺門派の争いに終止符を打ったのは、信長の延暦寺焼き討ちと、その数十年後に秀吉によって下された三井寺の廃寺令という二つの出来事でした。これらによって、両派閥はいったん表舞台から姿を消しますが、後にどちらのお寺も復興します。三井寺については、秀吉が祟りを恐れてか、晩年になって復興を許可しました。江戸時代に入ると、徳川家康の庇護のもとで三井寺は再び活気づき、今日も室町時代の雰囲気を残す優雅な建物が多く見られます。

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ニッポン巡礼

著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。

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プロフィール

アレックス・カー

東洋文化研究者。1952年、米国生まれ。77年から京都府亀岡市に居を構え、書や古典演劇、古美術など日本文化の研究に励む。景観と古民家再生のコンサルティングも行い、徳島県祖谷、長崎県小値賀島などで滞在型観光事業や宿泊施設のプロデュースを手がける。著書に『美しき日本の残像』(朝日文庫、94年新潮学芸賞)、『ニッポン景観論』(集英社新書)、『観光亡国論』(清野由美と共著、中公新書ラクレ)など。

 
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