スポーツウォッシング 第9回

日本の選手はなぜ自分の意見を言えないのか?

筑波大学・山口香教授インタビュー前編
西村章

政治とスポーツは切り離せるのか?

――日本の場合は、アスリートたちの多くは無菌室のような状態で育ってきて、しかも周囲は「あなたはそういうことを考えなくていいんだよ」という環境を作ってきた。それが、日本のアスリートたちの〈ものを言わない・言えない〉状況に大きく作用しているのでしょうね。

山口 そうだと思いますよ。人は環境の中で育っていく存在なので、たとえば、ハラスメントや差別が周囲にある環境だと、そこで自分の問題として考えるわけですよね。「これは私だけの問題なんだろうか……」「どう対応したらいいんだろう」「なぜこんなことが起きるのだろう」と考えて、人権の大切さにも直面していくわけです。
 でも、そういうことがまったくなくて、映画を見て「そういう差別ってあるよな」とか「戦争って悲惨だな」と感想を持つことはあったとしても、そこには体感や経験が伴っていないので、その人にとって切実なものにはならない。頭で考えることと切実な現実とはやはり違うと思いますね。

――つまり、多くの日本のアスリートたちにとっては、大坂なおみさんやF1のルイス・ハミルトンが訴えていることは、おそらく実感が伴わないしリアリティもない。

山口 日本が置かれている現状は、様々な不平不満があったとしても、やっぱりいい意味で平和だし、守られている。そして、今の社会では、勉強もスポーツも、親にある程度の余裕があって子供を支え、応援してもらえる人たちが上がってきているのだと思います。
 逆に言えば、恵まれた環境じゃないと育たないんですよ。スケートやスキーなどのシーズンスポーツなんて、本格的にやらせてあげようと思ったらものすごくお金がかかるわけじゃないですか。

――モータースポーツは、年間数百万円ではきかない額が必要になるようです。

山口 シーズンスポーツの場合でも、親が車を運転して送り迎えをし、そこに賭けてあげようという愛情があるわけですよね。そういう支えの上に今のアスリートたちは育っているわけで、これは8月刊行の『スポーツの価値』にも書いたことですが、昔のスポ根マンガみたいな環境から這い上がってきたわけではけっしてない。
 だから、それこそ貧困や差別に対する実感はないでしょう。そりゃ小さな軋轢はありますよ。先輩にいじめられたとか、コーチに暴言を吐かれたとか。だけど、一般的に日本のジュニアアスリートたちは、大きな社会的矛盾や危機の中で育ってはいないように思います。

――その一方では、環境に恵まれないけれども能力のある選手を見出して育成していく、という試みもあるわけですよね。

山口 もちろん、才能があれば拾いあげていく試みは随所で行っています。でも、それがどの程度有効に機能しているのかという検証はなかなか難しいですね。
 さらにそこには別の難しさもあって、たとえば中国や北朝鮮のように、若い子を集めてきて虎の穴みたいな養成所に入れて鍛える方式が、日本にフィットするのか、果たしてアスリート自身にとって幸せなのかどうか。

――スポーツを通じた人格成長よりも、まさに国家戦略のツール、という印象ですね。

山口 日本の場合でいえば、スポーツは部活動のように教育の一環として捉えられていて、アマチュアスポーツも多くは国がサポートしています。だから、「政治とスポーツを切り離す」と言った時に、じゃあこれらの競技は国のサポートなくして育成、強化や競技の運営をできるのか、という話にもなってくるわけです。
 国のサポートと完全に切り離して、たとえば民間スポンサーを集めて成り立たせることができるのか。成り立ったとしても、それで果たしてうまく運営できるのか、という問題もあります。企業には、スポンサーすることの利害や自社イメージが必ずつきまとうわけです。だから、国の良さもあるしスポンサーの良さもある、そしてどちらにも表と裏はある。そこがこういう議論の難しいところで、はっきりとした正解がないんですよね。

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プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

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