ニッポン継ぎ人巡礼 第2回

ひらかれた産地、「ものづくりの聖地」へ

甲斐かおり

「儲かってなんぼ」のまち

初めの3年間はとにかく地域に馴染もうとしたと、新山さんは振り返る。

「自分がその地域に入る初めてに近い移住者だったので、失敗したら次がないと役場の人に警告されて(笑)。3年間は自分の思ったことも言わないで大人しくしていました」

河和田を訪れたのは学生の時、京都精華大のゼミで「河和田アートキャンプ」に参加したのが最初だった。卒業後は大学の先生が設立した会社に所属し、リサーチの仕事を任される形で鯖江に移り住む。

「大学では建築を学んで、地域づくりに関心のある意識高い系のやつでした。でも河和田で職人さんに『ここはものづくりのまちなんや。儲かってなんぼなんや』と言われて、はっとして。そうか!ものが売れんとこのまちは元気にならないんだって」

さらに周囲の職人たちと交流するなかで、産地の内情を知っていく。

「この辺りのものづくりは伝統工芸品として注目されがちですが、実際は産業工芸なんです。職人さんらは美術品というより業務用や日常に使われる商品を量産している。

時代に合わせて変化し続けてきた歴史がある。世界で初めてメガネにチタンフレームを開発したのも鯖江やし、漆も手塗りをやめて吹き付け塗装をやるところが出てきたり。

でもその頃は地域全体がどよんとしていて、おっちゃんらと飲みに行くと、いつも愚痴か悪口か自虐ネタ(笑)。正直、おもんない話してるなぁと思ってました。景気が悪いので仕方なかったのかもしれませんが」

そうした手工業の技術は、まちがいなく日本を支えてきた力の一つだ。ところがバブル期の異常なほど儲かった時代を経て、本来この人たちがもっていた企業家精神が失われてしまったのではないかと新山さんは話した。

「ずっと大手企業の下請けでものづくりをしてきた産地なので、いい意味でも悪い意味でも下請け根性が染み付いているというか。職人さんらはつくるだけで、自分がつくっているものがどこでいくらで売られているのかも知らない。お客さんの顔も見えない。注文を受けてつくるだけの構図が確立されていて、自力で変化しにくい体制ができあがってしまっていたんです」

これは鯖江に限った話ではない。日本のあちこちに同じ構造を抱える産地がある。流通や小売の立場が強く、職人は立場が弱い。国内で一番か二番の高度な技術をもつベテラン職人が2世代前と同じ価格で仕事を請け負っていると聞いたこともある。そんな仕事に若い人たちが希望を見出せるわけもなく、高齢化と廃業のみが進んでいる。

新山さんはリサーチの仕事に3年間従事した後、鯖江市役所でインタウンデザイナーとして働き始める。当時の市長、牧野百男氏が商工政策課に席を用意してくれたのだった。

私が新山さんに初めて会ったのは彼が役場の職員になって3年目だった。頭の回転が速く、話が途切れない。にっと笑う顔にはやんちゃさも残る、誰からも愛されるキャラに映った。当時から、熱心にこのまちに足りないのはデザインとブランディングだと話していた。

「これだけ高度なものがつくられているのに、産地として知られていない。これからの時代は自分たちで外向けに鯖江をブランディングしていくのがすごく大事だと思うんです。それと同じくらいインナーブランディングも大事」

インナーブランディングとは、産地で働く人たち自身が自分たちの仕事の価値を認めて、誇りをもてるようにすることだ。

メガネのフレームを磨く工程(撮影/Tsutomu Ogino)


「お前に産地を語ってほしくない」

役場で働き始めたばかりの年のある日。
新山さんには忘れられない出来事が起こる。

河和田の漆器業界向けに、外部から講師を招いての勉強会が開かれた時のことだ。漆器の木地職人や産地問屋の中堅10人ほどが参加。講師の話に手応えを感じた彼は、ほかのメンバーも当然、同じように刺激を受けたものと思っていた。だがその晩の飲み会で、誰一人勉強会の話を口にする者はいなかった。

「いつものようにしょうもない話が始まって。自分としてはみんながどんなことを思ったのか、前向きな話をしたかったんです」

そこで自ら切り出すと、一人が放った言葉が胸に刺さった。

「お前なんかに産地のことを語ってほしくない」

カチンときて、強い言葉が出た。

「だからこの産地は駄目なんだ!」
「お前に産地の何がわかるんや!」

後から冷静に考えれば、相手の気持もわからないではなかった。つい先日までただのリサーチ員にすぎなかったよそ者が、突然役場の職員になって一端の顔で産地の将来を語っている。その変わり身が生意気に映ったのかもしれない。その時いたほとんどは職人ではなく問屋。地元では旦那衆と呼ばれるような立場のある人たちだった。

「その後、正直めちゃくちゃへこみました。メンタルが強い方ではないですし。2年は彼らから距離を置きましたね。でもそのぶん、話のわかる仲間が欲しいと強く思ったんです」

河和田のまち(撮影/Tsutomu Ogino)

その後新山さんは、それまでに出会っていなかった業界の異端児らと知り会っていく。従来の組合からは距離を置き独自の路線を貫く人たちで、地元では異端児扱いされていたが、ビジネスの視点でみれば一歩も二歩も先をいく人たちだった。

たとえば、先代が漆器の木地屋だったが、漆器とはまったく違う木工のオリジナルブランドを立ち上げ、全国に名を馳せるようになっていたHacoaの代表、市橋人士氏。業務用漆器を手がけ、現代に合うポップでカラフルな漆器をつくり始めていた漆琳堂の内田徹氏。

なかでも「谷口さんとの出会いは大きかった」と新山さんが話すのは、谷口眼鏡の谷口康彦社長。当時の河和田地区の区長でもあった。

「僕ら移住者の話を聞いてくれて橋渡しをしてくれて」。

谷口さんはメガネ会社の経営者ながら「河和田は漆器のまち。漆器に関わる人たちが元気にならないと地域が元気にならない」と、伝統的な手塗りの業者と、プラスティックの業務用漆器の業者間の溝を埋めるために勉強会を開くなど、風通しのよい場をつくろうと試行していた。

「自分はずっと、勝手にこの河和田の村長さんのような気持ちでいるんです」と穏やかな話し方をする、周囲に信頼を置かれる人物でもある。

新山さんはさらに、そうした先進的な企業に就職し木工やメガネづくりに興味のある同世代の移住者と出会い、若手4人とともに「TSUGI」というデザインチームを立ち上げる。

2017年に役場を退職後、任意組織だったTSUGIを会社化。地域の中小企業のブランディングや売り方のデザインをサポートするデザイン会社として活動し始める。

河田地区の漆器屋「漆琳堂」の経営者であり職人でもある内田徹さん(撮影/ittosakai)
谷口康彦さん(撮影/Rui Izuchi)
後のデザイン事務所TSUGIのメンバー。2019年、事務所脇にショップ「SAVA!STORE」をオープンした。(撮影/Tsutomu Ogino)
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プロフィール

甲斐かおり

フリーライター。長崎県生まれ。会社員を経て、2010年に独立。日本各地を取材し、食やものづくり、地域コミュニティ、農業などの分野で昔の日本の暮らしや大量生産大量消費から離れた価値観で生きる人びとの活動、ライフスタイル、人物ルポを雑誌やウェブに寄稿している。Yahoo!ニュース個人「小さな単位から始める、新しいローカル」。ダイヤモンド・オンライン「地方で生きる、ニューノーマルな暮らし方」。主な著書に『ほどよい量をつくる』(インプレス・2019年)『暮らしをつくる~ものづくり作家に学ぶ、これからの生き方』(技術評論社・2017年)

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