すべてがそうではないのだろうが、ロシアの人たちはなんだか、だいぶ「大まか」だ。
たとえば、翌日に会う予定の人がロシアにいない。ドイツにいたり、キプロスにいたりする。
ロシア語の通訳(私の親しい友人だ)は、電話、メール、インスタグラム、フェイスブックなど、あらゆる方法で連絡を試みる。
携帯は何度掛けても、
「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません」
という状況だ。
仕方がないので、関係者に連絡を入れる。その結果、取材対象者が「今、飛行機に乗っている」と判明するのである。
関係者はまったく動じずに、言う。
「帰国中だから、だいじょうぶ。間に合うと思うよ」
ものすごく不思議なのだが、彼らはなんだかんだで、「間に合う」のだ。いったいどういう仕組みなのだろう。
こうした乱暴にも似た大まかさは、ある種の強さにも繋がっていると、私は思う。たとえば、アレクサンドラ・トルソワの拠点の変更もそうかもしれない。
彼女の動向は、当初スキャンダラスに取り上げられた。
飛ぶ鳥を落とす勢いの「女帝」エテリ・トゥトベリーゼのところから、「皇帝」エフゲニー・プルシェンコのところへ移るのだ。騒ぎにならないわけがない。
もちろん、世界的なニュースになる。二〇二〇年五月のことだった。
しかも、騒ぎはそれで終わらなかった。彼女は一年後に、エテリ・トゥトベリーゼのところへ戻る。
選手がコーチを変えるのは普通のことだ。責められるべきことではない。ただ、トルソワの動向には、正直驚かされる。エゴイズムを感じる。
でも、だからこそ、彼女は天才なのだ。あるいは天才でいられるのだ。
今年九月、彼女は四回転四種五本に挑み、すべてを成功させている。男子でさえ、そんなには跳べない。
その構成で試合をしようと考える男子は、世界中に何人いるだろう。そうはいないはずだ。
トルソワが世界ジュニアを二連覇していたころ、ジャッジからこんな話を聞いた。
「ロシアの小さな子たち、今はいいけれど、年齢を重ねて体型が変わってくると跳べなくなると思う。そうなると、表現力が足りないから……」
あまり脅威ではないというニュアンスだった。
だが、どうやらそれは見当違いだったようだ。トルソワは一七歳になっても進化し、ジャンプを跳び続けている。
フィギュアスケートは、決してジャンプだけの競技ではない。しかし、このままでは誰も彼女には勝てないだろう。そういう域に、トルソワはいる。
ノンフィクション作家、エッセイストの宇都宮直子が、フィギュアスケートにまつわる様々な問題を取材する。