今回から始まる佐々木徹氏のインタビュー連載「遺魂伝」。前回掲載した“遺魂伝前史”「いきもん伝シリーズ」の記事を読めば、この企画がどういうものかわかると思うが、要は「この人の“魂”の話を今のうちに聞いておきたい!」という方々の連続インタビューである。その第1回目のゲストは俳優・石坂浩二さん。その理由も…読めばわかる。ということで、早速スタート。
『幸福論』に出てくる〝乳母車とピン〟の話がずっと心に刺さってた
17年間も待った──と書き始めると、ちと大袈裟か。でも、この日が来ることを心のどこかで願い続けてきたのは間違いない。
記念すべき『遺魂伝』の第1回目に登場していただくのは石坂浩二さん。そう、石坂さんから、もう一度、お話を伺いたかったのだ。
では、なぜに17年間も石坂さんとの再取材を待ち望んでいたのか。
話はそれこそ17年前にさかのぼる。
当時、私は『週刊ポスト』で連載されていた『おもいぐさ ことのはぐさ』という人物インタビューを担当していた。毎週毎号、各界の著名人に、その人の心に残っている名言や格言、親しい人からかけられた勇気ある言葉などを紹介してもらうページだった。
連載の何回目にご登場していただいたのか失念しまったけれど、石坂さんは挨拶もそこそこに、取材テーマの核心から、話をスタートさせた。
「心に残る言葉でしたよね、あなたがお聞きしたいのは。フランスの哲学者にアランという人がいましてね、彼は『幸福論』を出版しているのですが、最初の一節に、こんなエピソードを綴っているんです。
《女性が乳母車を押している。乳母車では赤ちゃんが泣き続けている。女性は困り果て、赤ちゃんを抱き上げると、乳母車の底に1本のピンがあった》
ボクなりに解釈すると、赤ちゃんが泣くのには理由がある。大切なのは、その理由を探すこと。結果、乳母車の底にあったピンが原因だとわかる。そのピンを取り除いてやれば、赤ちゃんは泣かずに寝てくれる……。
このことを自分たちの日常生活に当てはめると、何か心配事がある場合、そこには原因があるわけだから、今のうちに取り除くように努力? まあ、行動するでもよいと思いますが、そうやって動くことにより、心配事は解消され、少しは幸せになれるというね。
『幸福論』は、かなり昔に読みましたが、今でも、いや、常々思い返すんですね。ですから、石坂浩二の心に残る言葉は?と問われれば、すぐにアランの一節を思い出します」
心に残る言葉は、リレーのように引き継がれるものらしい。
石坂さんに教えてもらったアランの言葉のバトンは、今も握りしめている。あの日以来、ことあるごとに、アランの一節が頭をよぎり、この問題のピンはどこにあるのだろう、果たしてピンの正体は何なのだろうか、と考えることが習慣になってしまったほど。
なにはともあれ、そのフランスの哲学者・アランを簡潔に紹介すると、本名はエミール・シャルティエ。1868年モルターニュ・オ・ペルシュ生まれ。約40年間、高等中学校で哲学の教師を務めたそうだ。また、新聞などに毎日プロポ(哲学断章)を書き続け、それらをまとめたのが『幸福論』だ。
そうだそうだ、思い出した。なんとも興味深いのは1998年に岩波文庫から出版された『幸福論』の最初の一節には、このように書かれていること。
《幼な子が泣いてどうにも泣きやまない時、乳母はしばしば、その子の幼い性格について、好き嫌いについてまことにうまい想定をあれこれとするものだ。これは親から受け継いだものだから、と言って、すでにその子のなかに父親の姿をみとめるのだ。こうした心理学的検索が続いて最後にようやく乳母は、すべてのことが生まれたほんとうの原因、つまりピンを見つけるのである》
この翻訳が正しいとするならば、石坂さんが『幸福論』を初めて読んだのが約60年以上前だと思われ、その長き間に脳内で自分にわかりやすいように文章が変化したのだろう。ちなみに、日本で最初に『幸福論』の翻訳が出版されたのは1940年。それから8種類の翻訳が出版されている。それだけアランのプロポを理解し、日本語に変換するのは難しい作業なのだと思う。もしかしたら、その8種類の中のひとつに、石坂さんが語ってくれた〝乳母車とピン〟の話がオープニングを飾っているのかも知れないが。
どちらにせよ、どの翻訳よりも、石坂さんヴァージョンの〝乳母車とピン〟のほうが理解しやすかったし、心に深く突き刺さったし、そうでなければ、途中でアランのバトンを放り投げ、忘れていたはず。
さて、この17年間、日常生活の中においてことあるごとに〝乳母車とピン〟をフィルターにして考えるようになったと前述した。
例えば、わかりやすく最近の出来事でいうと新型コロナウイルスの感染問題。毎日のように感染者が発表され、ついでに第4波だ、第5波はいつ頃来るとか騒いでいる最中、私はいつも「なぜに政府は事前にPCR検査の拡充や重症者病床の確保に迅速に取り組まないのだろう」と不思議で仕方なかった。
まさにそのような取り組みは〝乳母車〟の底に刺さっている〝ピン〟であり、それを取り除けば、国民の明日への不安は多少なりとも払拭するのではないかと考えていたものだ。
でも、現実は一向に改まっていかない。誰もが〝ピン〟の正体に薄々気付いているのに、動こうとしない。そのうち、日本人は〝ピン〟を取り除く作業がもともと苦手な民族なのかもしれないと考えるようになった。つまり、いつしか私は〝乳母車とピン〟から、少しだけ思考を前進させたいと願い、試みるようになったわけだ。
そんなある日、なんということだ、偶然にもまた、アランの言葉が目に留まった。
アランは『文学語録』で、このように記しているではないか。
《いかなる人間の思考も、他人の考えについての思考にほかならない。最も深い思想の人たちは、自分にとってよいものを他人の考えから選択し、それをいっそう前進させるものである》
となれば、17年間の時を超え、ぜがひでも再び石坂浩二さんにお会いしたくなる。
もう一度、〝乳母車とピン〟の話を広げ、そこから先に思考を前進させたい。
では、石坂さん、ご登場を。
プロフィール
佐々木徹(ささき・とおる)
ライター。週刊誌等でプロレス、音楽の記事を主に執筆。特撮ヒーローもの、格闘技などに詳しい。著書に『週刊プレイボーイのプロレス』(辰巳出版)、『完全解説 ウルトラマン不滅の10大決戦』(古谷敏・やくみつる両氏との共著、集英社新書)などがある。