トーマス・エジソンが「個人のための映像視聴装置」であるキネトスコープを発明してから2021年で130年。NetflixやAmazonがもたらした構造変化、テレビシリーズを質と量ともにリードし続けるHBO、覇権を握るディズニーのディズニープラスへの業態移行。長引く新型コロナウイルスの影響によって「劇場での鑑賞」から「自宅での個人視聴」の動きがさらに加速する中、その誕生以来最大の転換期を迎えた「映画」というアートフォーム。その最前線を、映画ジャーナリスト宇野維正が「新作の映画批評」を通してリアルタイムで詳らかにしていく連載「130年目の映画革命」。第2回は映画史上最高傑作の一つ、オーソン・ウェルズ『市民ケーン』の脚本家ハーマン・J・マンキウィッツを主人公に、ハリウッド黄金時代の裏側を描いたNetflixオリジナル映画『マンク』。本作はデヴィッド・フィンチャーの長編映画としては6年ぶりの新作となる。
自分がローティーンだった1980年代前半、オーソン・ウェルズといえば新聞や雑誌で頻繁に見かける英会話教材広告の「顔」だった。一方、映画への関心を徐々に深めていた当時、必死で読み漁るようになった映画関連の書籍や雑誌の「歴代ベスト映画」的な特集における不動の1位は1941年の『市民ケーン』だった(その後、公開から一定の年月を経て評価が確立した『ゴッドファーザー』と票を分けるようになっていく)。日本の小さな出版社の安っぽい広告で知ったやたら眼光の鋭い髭の老人と、映画史に燦然と輝く若き天才監督。約40年の時間を挟んだそのようなイメージのギャップから日本の少年が受け取ったのは、「この人は過去の栄光を食い潰している映画人なのだろう」という認識だった。1985年にウェルズが亡くなった時も、少なくとも日本では大々的には報道されなかったし、おそらく契約期間が続いていたのだろう、亡くなった後もまるで何もなかったかのように英会話教材広告の「顔」の役割を担い続けていた。気の毒なことに。
ウェルズは25歳の若さで『市民ケーン』で映画監督デビューして以降、1948年の『マクベス』までアメリカ資本で6作の長編映画を立て続けに撮ったが、いずれの作品も興行的に芳しい結果を残せず、その後は国外の資本を頼りにして映画を作るようになった。30代半ば以降、ウェルズがハリウッドで撮った作品は1958年の『黒い罠』1作のみ。同作も、ユニバーサル映画と最終編集権を巡って揉めに揉めて、撮影終了から公開まで2年かかった曰く付きの作品だった。ちょうどその頃には、『市民ケーン』以降の作品も、アンドレ・バザンや監督デビュー前のエリック・ロメールをはじめとする、それまで見くびられてきた「ハリウッドの娯楽映画の作家」を擁護する「カイエ・デュ・シネマ」周辺のフランスの批評家たちから熱狂的に支持されるようになっていたが、既にウェルズ自身はアメリカの映画業界での足場を失っていた。
妥協を許さない完全主義者、コントロールフリーク、映像技術の革新者—映画監督としてのウェルズのキャッチフレーズの数々は、そのままフィンチャーにも当てはまる。自作自演のラジオドラマで名を上げたウェルズ。ミュージックビデオやCMの監督として名を上げたフィンチャー。20代の若さで他業種からいきなりスター監督風情でハリウッドに乗り込んできた「アウトサイダー」であった点も同じだ。フィンチャー自身、ウェルズ作品には長年愛着を抱いていて、最新の取材でも「『市民ケーン』はアメリカ映画史上最高の作品ではないかもしれないが、トップ3には確実に入る」(https://www.nytimes.com/2020/11/19/magazine/david-fincher-mank-interview.html)と明言している(ちなみに残りの2作は『ゴッドファーザーⅡ』と『チャイナタウン』とのこと)。1989年、まだミュージックビデオ監督だった27歳のフィンチャーが撮ったマドンナの「オー・ファーザー」(マドンナと実父の確執をテーマにした曲)は、モノクロ映像、光と影を極端に強調したライティング、ディープフォーカスによって手前の室内にいる両親から窓越しに幼少期の主人公を捉えるシーンなど、全編あからさまに『市民ケーン』のレファレンスが張り巡らされた作品だった。また、アメリカ的資本主義の頂点を目指しながら、私生活においては誰も信じられず孤立を深めていくフェイスブックの創業者マーク・ザッカーバーグの半生を描いた『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)は、公開当時から「現代版『市民ケーン』」と評された。
『ゲーム』(1997年)公開時のエンタテインメント・ウィークリー誌の記事で、その約10年前にフィンチャーと共にCMやミュージックビデオの製作会社プロパガンダ・フィルムを設立した共同経営者スティーブ・ゴリンは「若い頃の彼は非現実的なほど傲慢だった。そして、自分よりも賢くない人間—つまりほとんどすべての人間—に対する異常なほどの忍耐力のなさは、映画監督になった今も変わっていない」とフィンチャーのパーソナリティを明かしている。監督デビュー作『エイリアン3』(1992年)で20世紀フォックスと激しく対立した若かりし日のフィンチャーが、それでもウェルズのように受難のキャリアを歩んでいくことを回避できた最大の理由は、次の監督作『セブン』(1995年)が世界的大ヒットを記録したことだ。ここで監督としての権限を拡大することに成功したフィンチャーは、『ドラゴン・タトゥーの女』(2011年)まではある程度コンスタントにハリウッドで映画を撮り続けることができた。ただし、作品ごとに頻繁に組むスタジオが変わっていて、同じ脚本家と仕事を二回以上していないことには留意すべきだろう。「扱いづらい天才」という点において、ウェルズとフィンチャーは似たもの同士だ。ウェルズがウィリアム・ランドルフ・ハーストを、フィンチャーがザッカーバーグを、それぞれ自作の題材として選び、その人物像を鮮明に浮き上がらせることができたのは、自分も同じ「傲慢なクソ野郎」であることからくる一定のシンパシーがあったからではないだろうか。
ここに『マンク』という作品の本質的な捻れがある。というのも、『マンク』の主人公はそのタイトルにもある通り『市民ケーン』の脚本を書いたマンキウィッツその人であり、本作でウェルズは脚本の発注主として交通事故で満身創痍のマンキウィッツを人里離れた牧場の宿泊施設にカンヅメにして、締め切りを強引に前倒しにして、やがて脚本のクレジット問題で決定的に対立することになる、主人公を抑圧する側の人間として(主に電話越しに)登場するからだ。触るものみな傷つける才気走ったウェルズ(やフィンチャー)と違って、ユーモアと機転で業界の荒波を乗り越えてきたマンキウィッツの人物像には、本作の脚本を手がけたフィンチャーの父、ジャック・フィンチャーを重ねることが可能だ。マンキウィッツを脚本の題材にすることを勧めたフィンチャーは、シカゴ・トリビューンのベルリン特派員、ニューヨーク・タイムズ紙やニューヨーカー誌の演劇批評家を経て脚本家に転身を遂げたマンキウィッツに、ライフ誌のサンランシスコ支局長を務めながら脚本家になる夢を抱いていた父の未来を重ねていたのかもしれない。そのマンキウィッツに、フィンチャー親子は劇中でこんなふうに嘆かせる。
「私はこれまで何一つ成し遂げてこなかった。神様、啓示をください。私はあなたのしもべ、モーゼです。ギャラの引き下げには応じませんが」
(I should have done something by now. Gime me a sign, oh, Lord. I am as your servant Moses, though I won’t work half as cheap.)
トーマス・エジソンが「個人のための映像視聴装置」であるキネトスコープを発明してから2021年で130年。NetflixやAmazonがもたらした構造変化、テレビシリーズを質と量ともにリードし続けるHBO、ハリウッドの覇権を握るディズニーのディズニープラスへの軸足の移行。長引く新型コロナウイルスの影響によって「劇場での鑑賞」から「自宅での個人視聴」の動きがさらに加速する中、誕生以来最大の転換期に入った「映画」というアートフォーム。その最前線を、映画ジャーナリスト宇野維正が「新作映画の批評」を通してリアルタイムで詳らかにしていく。
プロフィール
1970年、東京都生まれ。映画・音楽ジャーナリスト。音楽誌、映画誌、サッカー誌の編集部を経て、2008年に独立。著書に『1998年の宇多田ヒカル』(新潮社)、『くるりのこと』(共著:くるり、新潮社)、『小沢健二の帰還』(岩波書店)、『日本代表とMr.Children』(共著:レジ―、ソルメディア)、『2010’s』(共著:田中宗一郎、新潮社)。