水田を守った宇佐神宮の威厳
田染の水田が奇跡的に何世紀もまったく変わらなかったことの理由は、荘園の主だった宇佐神宮に求めることができます。水田に限らず、国東半島全体に計り知れない影響を与えた存在こそが、宇佐神宮なのです。
私がはじめて宇佐神宮を訪れたのはまだ学生だった1971年でした。青々とした緑の古木に囲まれた鮮やかな朱色の鳥居と社殿が、いまも脳裏に焼き付いています。その後、77年から京都府亀岡市に本拠のある神道系の宗教法人「大本」の国際部に勤め、また、京都の石清水八幡宮で通訳の仕事をしたこともあって、八幡信仰について深く考えるようになりました。
日本全土に普及した神社の系列として、日吉・山王系や伊勢・出雲系、東照宮、庚申神社などが有名で、それぞれ全国に数百、もしくは数千の社があります。しかしながら、稲荷、天満宮、そして八幡宮は、それらをはるかに上回る数万、数十万社を誇る「三大フランチャイズ」です。豊作と商売繁盛の神である稲荷と、学問の神である天満宮は、かつて日本のどの村にもあるものでした。八幡宮についてはさまざまな解釈がありますが、「国家の守り神」という表現が適切だと私は思っています。それが源平合戦のころから、戦の勝利神に転じて、武士たちに厚く慕われるようになったのです。
宇佐神宮のルーツは六世紀以前と伝えられていますが、歴史の舞台に登場したのは天平十五年(743年)です。東大寺の造営時に神の託宣を受けた宇佐の宮司は、奈良に上がって造営の成功を祈願しました。それ以降、朝廷は八幡神を国家の守り神と認識するようになりました。平安時代になると、九州が朝廷から遠かったこともあり、都の南にあらたに石清水神宮が創建され、そちらの存在感が強まりました。その後、各地に有力な八幡神社が勧請され、宇佐神宮の影響力は徐々に弱まっていきます。しかし八幡信仰の発祥地は、ほかならぬ宇佐神宮なのです。
その威厳は、亭々とそびえる境内入り口の鳥居からも伝わってきます。大きく反った笠木と島木(鳥居の上部にある上下二本の横木)は、神道のミニマリスムよりも、仏教的なデコラティブ志向です。その形を見ても、八幡信仰には当初から神仏習合の思想が色濃くあったことがうかがえます。
ここで少し脇道に逸れますが、第一言語が英語の自分には、宇佐神宮の入り口に立てられた「History of Usa-Jingu」という大きな英語看板がどうしても気になりました。英語で説明が書かれていますが、文法は間違いだらけ、説明の内容もチンプンカンプン。外国人観光客のために看板を設置したのは親切心の発露ですが、肝心の文章をネイティブスピーカーにチェックしてもらえなかったのでしょうか。神宮の威厳がここで薄まっているのは残念なことでした。
国東半島になぜ修験道が広まったのか
宇佐神宮の鳥居には、もう一つの特徴があります。柱と横木の交差部に巻かれている、黒いドーナツのような輪っかです。これは「台輪」と呼ばれ、宇佐神宮から国東半島全域に広まった鳥居の形式といわれています。実際、半島内の小さな集落でも、台輪が付いた鳥居はあちらこちらで見かけ、地域特有の様式が残っています。
たとえば田園風景の途中で見つけた「大年神社」がそうでした。あまり馴染みのない名前ですが、奈良の葛城や京都など、全国に散らばっている神社系統の一つで、穀物神をお祀りする神社のようです。
鳥居は大きなものではありませんが、笠木には宇佐神宮のような反りが見られ、台輪が付いています。この素朴な石鳥居が作られたのは享保十四年(1729年)で、既に三百年近くの年月が経過しています。
大年神社は古びた雰囲気でひっそりしていましたが、石段を登って奥に進んでいくと、宮大工が手がけたと思われる立派な社殿がありました。拝殿から奥の本殿へ進むにつれて社の床が段階的に上がっていく造りになっており、小さな村の神社とは思えない華やかさで、拝殿表側の屋根のラインも上品です。拝殿から振り返って参道を見下ろすと、絵画のように青々とした田園風景が鳥居越しに広がり、社の清らかさ、宮大工の繊細さ、村人の素直な信仰精神が心に響いてきました。
しかし、神社は無人で周辺もさびれています。有名な神社仏閣は観光による収入がありますし、文化庁からも手厚く守られますが、ほぼ忘れ去られた存在の大年神社はこの先どうなるのでしょうか。
宇佐神宮に話を戻しましょう。広大な境内を奥へと進み、階段を登っていくと「上宮」の神殿が見えてきます。神殿は強烈な朱色塗の建築で、三つの拝殿が設けられています。手前の広い中庭には立派なクスノキがそびえ、木の緑と建物の朱によるコントラストが鮮やかです。
神社、神宮で使われる「朱」には、黒味がかった深紅に近い朱色と、オレンジ色に近い明るい朱色の二種類があるように見受けられます。宇佐神宮の上宮の朱は鮮やかなオレンジ色で、補色となる木々の緑の中で、とても印象深いものでした。
仏教が日本に伝来した時、本地垂迹という考えが生まれ、神社の神は仏が地上に降りた仮の姿とされました。この思想が“発明”されたことによって、日本では仏教と神道の融合が円滑に進み、明治維新の廃仏毀釈運動で切り離されるまで、多くの神社は千年にわたって半仏・半神として日本人の暮らしに溶け込みました。宇佐神宮のように「八幡大神(八幡大菩薩)」が主祭神である八幡宮は、その歴史の中でも仏教的な要素が強く、絵画や彫刻の多くが八幡神を「僧形」(剃髪されたお坊さんの形)としてイメージしています。
八幡神はお坊さん姿の菩薩でありながら戦の神でもあるので、どこか荒々しく恐ろしく、火焔を背負った不動明王にも通じるパワフルさがあります。八幡神の持つスピリチュアルな霊力は、修験道にも通じます。国東半島に修験道が広まったことには、このようなことも作用しているのではないかと、現地に立って実感しました。
宇佐神宮では参拝時の作法が、一般的な「二拝二拍手一拝」ではなく、「二拝四拍手一拝」になっています。この様式は宇佐神宮と出雲大社でしか行われていないものですが、実は「大本」で私が習ったのも「二拝四拍手一拝」でした。出口王仁三郎は「大本」の命名にあたり、「いちばん古い本となる真髄に戻る」という自身の思想を反映しました。宇佐神宮を参拝することは、神道本来の姿との出会いなのかもしません。
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