ディープ・ニッポン 第13回

北海道(1)夕張

アレックス・カー

2023年、15年ぶりの夕張再訪

 そして2023年6月。前回の北海道訪問から15年がたった節目に、夕張の町がどのように変わったか見てみたい。そう思った私は、北海道探索の最初の目的地としてここを選びました。

 同行する清野さん、大島さんと新千歳空港で合流して、レンタカーで北を目指します。

 新千歳空港から夕張までは車で約一時間です。空港から離れるとすぐに田園地帯に入り、北海道の広々とした畑がゆるやかな波のように地平線まで広がっています。秋田と青森で大きな水田を見たことはありましたが、北海道の田畑はさらに大規模です。しかし北海道では稲作は農業の中心ではなく、畑には芋、小豆、小麦などが栽培されていました。

 農地は大規模で、いわゆる伝統的な「古民家」の眺めは皆無。茅葺きどころか、瓦や板張りの屋根も少なく、ほとんどの建物は金属の屋根になっています。学生だった時は気にも留めませんでしたが、今回あらためて景色を見てみると、私がこれまでほとんど意識を向けることのなかった「明治」への触発が、そこにはありました。

 二階建てぐらいの高さの建物に丸みのある屋根を被せ、明るい色のペンキ(多くは錆止めの効果がある赤色)を塗った建物は、現在も北海道の農地に見られる特徴の一つで、これは典型的なニューイングランド様式です。

 ニューイングランドと北海道の内陸部は、ほぼ同緯度帯に位置し、寒冷な気候風土とともに、樹木や植物の相が似ています。私が通ったイェール大学はニューイングランドのコネチカット州にあり、休日になるとマサチューセッツ州やバーモント州などに、よくドライブに行きました。急峻な谷や崖ではなく、ゆるやかな丘陵がどこまでも続き、広葉樹の森林が秋になるとみごとな紅葉を見せていました。広大な丘に赤ペンキの屋根を乗せた農場の建築スタイルは、私にはなつかしいもので、車を停めては写真を撮っていきました。

北海道の田園風景

 この風景ができたのは、明治初期の北海道開拓に、ニューイングランドのマサチューセッツ州から来た二人のアメリカ人が大きく関わったからです。一人は、アメリカ合衆国政府の農務局長を務めていたホーレス・ケプロン。もう一人はマサチューセッツ農科大学の学長だったウィリアム・スミス・クラークです。明治維新から間もない1871年にケプロンが来日し、続いて1876年にケプロンの紹介でクラークがお雇い外国人として日本に招聘されて、札幌で北海道開拓の指導にあたることになりました。

 ケプロンは北海道で育ちにくい稲の代わりに、麦とホップの栽培を推奨し、開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)の設立に寄与しました。ほかにもジャガイモやタマネギ、リンゴなどの栽培を進めました。クラークはいうまでもなく「少年よ、大志を抱け」の名言で有名な人物です。札幌農学校(北海道大学の前身)の設立に携わり、マサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま持ち込みました。

 この二人のお雇い外国人がニューイングランドから農業のさまざまな技術を伝えたゆえに、北海道は農作物の栽培、畑の活用から家屋、納屋、厩舎などの形まで、ニューイングランド風になったわけです。

「石炭の歴史村」は「夕張希望の丘」へ

 道道38号から夕張に入ると、車の中から見た町は15年前からあまり変わっていないように感じました。しかし、実際に町を歩くと、以前よりさらに寂れた印象を受けました。人通りも車通りもなく、今回は軍用車すら見かけません。映画ポスターは町の中心部に残っていましたが、ずっと雨ざらしだったようで色は褪せていました。

夕張の町 色褪せた映画ポスター

 かつてロボット大科学館は1980年代に夕張炭鉱跡地に開園した「石炭の歴史村」というテーマパークの中にありました。歴史村内には「夕張市石炭博物館」「SL館」「郷愁の丘ミュージアム歴史館」やゴーカート、ゲームハウスといったさまざまなアミューズメント施設が作られ、ロボット大科学館は88年にオープンしました。

 歴史村へのアプローチにはかつてランドマークだった煙突がそびえています。十五年前はブルーと白のペンキで「石炭の歴史村」という文字が大きく書かれていましたが、いまではペンキがはがれ、「夕張希望の丘」という文字になっていました。

「夕張希望の丘」と書かれた炭鉱の煙突跡

 そこから記憶を頼りにロボット大科学館を探しましたが、その姿を確認することが、なかなかできません。ロボット大科学館は、私が前回に訪ねた後に解体されていたようです。当時もそうでしたが、現在の歴史村はほとんど廃墟と化し、大科学館の入り口があった場所には雑草が生い茂っています。ところどころに、楽しげな入り口アーチや橋の名残が見えますが、人の姿はまったくありません。

 唯一、石炭博物館だけはいまも稼働はしていますが、訪れた日はあいにく閉館日でした。

 夕張では、歴史村のほかに「ホテルマウントレースイ」や「ゆうばりホテルシューパロ」などの大型リゾートホテルも第三セクター方式で建設されましたが、いずれも経営に失敗して、現在、稼働しているところはありません。

 市が財政再建団体になった後、2011年に東京都庁の職員だった鈴木直道氏が、全国最年少(当時)の市長として夕張市長に就任し、市の再生に取り組みました。鈴木氏は八年間市長を務めた後、19年に北海道知事に転じましたが、夕張市長在任時には、「コンパクトシティ化」や夕張メロンのブランディングなどに力を入れました。

 鈴木氏がどのように「コンパクトシティ」を目指したのか、その実状に詳しいわけではありませんが、当時は財政破綻団体のニュースに乗って、中央の有名な政治家も夕張を訪れて、話題を振りまいていました。しかし、夕張市の人口は08年からさらに半減し、23年現在で約六千六百人にまで落ち込んでいます。中心街の人通りの少なさ、ほとんどの店がシャッターを閉めている状況から推察するに、コンパクトシティ化は、あまり成果があったようには思えません。

「ファミリースクールふれあい」の階段は藪に覆われ、窓ガラスは割れて抜け落ち、建物の周りもジャングルと化していました。日中の明るい陽光の下でも、学校ホラーの舞台のような鬼気迫る雰囲気。

現在のファミリースクールふれあい

 私たちが町の中心部を歩く中ですれ違ったのは、たった一人のご高齢の女性だけでした。

次ページ ハードが消えて、ソフトが残る
1 2 3
 第12回
第14回  
ディープ・ニッポン

オーバーツーリズムの喧騒から離れて──。定番観光地の「奥」には、ディープな自然と文化がひっそりと残されている。『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』のアレックス・カーによる、決定版日本紀行!

関連書籍

ニッポン巡礼

プロフィール

アレックス・カー
東洋文化研究者。1952年、米国生まれ。77年から京都府亀岡市に居を構え、書や古典演劇、古美術など日本文化の研究に励む。景観と古民家再生のコンサルティングも行い、徳島県祖谷、長崎県小値賀島などで滞在型観光事業や宿泊施設のプロデュースを手がける。著書に『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』(ともに集英社新書)、『美しき日本の残像』(朝日文庫、94年新潮学芸賞)、『観光亡国論』(清野由美と共著、中公新書ラクレ)など。
集英社新書公式Twitter 集英社新書Youtube公式チャンネル
プラスをSNSでも
Twitter, Youtube

北海道(1)夕張