現代社会と向き合うためのヒーロー論 第1回

中年ヒーローたちの分かれ道|『トップガン マーヴェリック』『オビ゠ワン・ケノービ』

河野真太郎

従属的男性性と『オビ゠ワン・ケノービ』

 だが、観賞後に私はふと思った。最終的に肯定されるべきなのは、『トップガン マーヴェリック』よりも、『オビ゠ワン・ケノービ』なのではないか? 

 もちろん、フィクションと現実との区別がうまくできているならどちらを肯定してもいいといえばそうなのだが、それにしても、マーヴェリックは、完璧すぎないか。オビ゠ワンのように、年老いて力を失っている、けれどもやむにやまれず使命にかり出されそれをなんとか乗り越える……こちらの方が、現代においては説得力のあるヒーローとは言えないか? 

 若く力強い、健常者の異性愛白人男性というどこまでもマジョリティ的なヒーローというのは(マーヴェリックの場合は若くはないのだが、それを乗り越えることそのものが肝である)、あまりにもベタすぎて、今や保留なしでは肯定できないのではないか。

 そして何よりも、とりわけ私のような中年男性観客は、自分たちの幸せのためにも、マーヴェリックに興奮して下手な同一化をするのではなく、オビ゠ワンの中に見える自分の鏡像と向き合う術を学ぶことの方が重要なのではないか?

 冒頭で、現代のヒーローものでは「男らしさ全開」では説得力を持たないと述べた。個々の作品を挙げれば、これに反論は可能かもしれないが、それにしてもヒーローものの前提を徹底的にひっくり返すことを本体とする最近の作品(ここで念頭にあるのは、『ザ・ボーイズ』シリーズであり、『アンブレラ・アカデミー』シリーズである)の標的となる主たる前提が、男性性、男らしさであることは全体的傾向として言えるだろう。

 そうすると、広い意味でのヒーロー物語として、現在支配的なのは『オビ゠ワン・ケノービ』の方であり、『トップガン マーヴェリック』は偶然の徒花のようなものと考えるべきではないのか?

 実際、『オビ゠ワン・ケノービ』のオビ゠ワンには、現代的な男性性表象のある種の典型が多く盛り込まれている。旧来的なヒーローの超越的な力が女性たちに付与されることが増える中、オビ゠ワンは力を失い、何よりもそれに付随して絶対的な「正義」のポジションも失っている。

 このことは、フェミニズムが進展し、性の平等が進んだ社会では当然のことであるし歓迎すべきことでもあるだろう。しかし、それだけではそもそも男性を主人公とする物語が成立しない。

 私は2022年5月に上梓した『新しい声を聞くぼくたち』(講談社)で、そのように従属化してしまった男性の生き残り戦略のひとつとして「助力者」となることを指摘した。オビ゠ワンもまた、助力者となることによってなんとか主人公としての命脈を保つ。つまり、レイアを救う助力者である。

 ところが正直に言って、真の意味で助けられたのはオビ゠ワンであり、ユアン・マクレガーという役者の方だったかもしれない。今回幼いレイア役に抜擢されたヴィヴィアン・ライラ・ブレアのみごとな演技がなければ、『オビ゠ワン・ケノービ』に見るべきものはほとんど残されていないといっても過言ではなかったからだ(私は、このドラマのタイトルは『レイア・オーガナ』でもいいんじゃないかと、ある時点では思ったくらいだ)。

 とはいえおそらく、『オビ゠ワン・ケノービ』のオビ゠ワンは、現在の従属化した男性性の重要な側面をとらえている。あえて言えば、作品として残念な出来になってしまわざるをえないことも含めて、それをよくとらえているのだ。

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第2回  
現代社会と向き合うためのヒーロー論

MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。

プロフィール

河野真太郎

(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。

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中年ヒーローたちの分かれ道|『トップガン マーヴェリック』『オビ゠ワン・ケノービ』