ヒーローたちは、相変わらず元気である。MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)の世界は拡大の一途だし、日本ではウルトラマンや仮面ライダーといった往年のヒーローがスクリーンで躍動している。ヒーローをモチーフにした漫画やアニメ作品も変わらずにある。流行ってはいるのだろう。
だが、それらのヒーローたちが、ポストフェミニズムとも言われる現在、奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなっていることも確かだ。正義と悪の区別に悩むヒーロー、民衆に批判されるヒーロー、年老いていくヒーロー、そしてなんといっても(「ヒーロー」が男性であるという前提での話だが)男らしさ全開では全然説得力を持ち得なくなったヒーロー。
そこから、最近では、「ヒーローもの」というジャンルそのものをパロディ化し、従来のヒーローものが寄って立つ前提を皮肉なかたちでひっくり返すような作品が目立ってきている。
本連載では、そのようなヒーローたちの現代のありようを、時々過去に遡りながら(場合によってはホメロスまで遡るかもしれない)、さまざまな切り口から考えていきたい。
主にアメリカと日本の作品が中心になると思うが、それぞれの国では当然にヒーローのおかれた歴史的条件はちがうだろう。そのような歴史的条件と一緒に、ヒーローとは何なのか、今後どうあり得るのかを、その時々の新作にも目を向けながら考えていってみたい。
『トップガン マーヴェリック』──還暦をぶっとばせ
いやいや、ヒーローは死んでいない。ヒーローをめぐる上記のようなあれこれの悩みをすべてスカッとぶっとばした作品、それが現在(2022年7月14日時点)大ヒット公開中の『トップガン マーヴェリック』(2022年)である。
告白しておけば、1974年生まれの私にとっては、1986年公開の『トップガン』は少年時代の映画体験、アメリカ文化体験の中心のひとつだった。
トム・クルーズ演じるピート・“マーヴェリック”・ミッチェルは、少年時代に私が出会ったアメリカン・ヒーローの原像だったと言っても過言ではないし、年齢なりに、カッコイイ戦闘機に憧れた私にとって、F-14トムキャットは「ザ・戦闘機」であった(ちなみにF-14は1982-83年に放映された『超時空要塞マクロス』に登場する、戦闘機から人型ロボットに変形できる兵器「VF-1バルキリー」のモチーフであったし、新谷かおるの漫画『エリア88』(1979-86年)の中で重要な役割を果たす戦闘機であった。そのような文化的刷り込みというか、重要性をこの戦闘機は持っていた)。
その『トップガン』から36年、私たちはいったいどんな『トップガン』を、どんなマーヴェリックを目にすることになるのだろうと不安と期待を胸に劇場に足を運んだ。
蓋を開けてみると、『トップガン マーヴェリック』は、近年盛んなリヴァイヴァルもの、往年の俳優たちが年老いた同じ役で出るという最近多いタイプの映画(そのいくつかは本連載で扱うことになるだろう)とはどこまでも異質な映画だった。それは様々な“自意識”から解放された映画だった。
36年前の『トップガン』は文化的な過去の遺物であり、マーヴェリック=トム・クルーズも年老いた、そういった事実をなんとか迂回して娯楽になり得る映画を作らなければならない──この映画はそのような(最近の多くの映画がとらわれている)自意識からどこまでも自由に、スカッと空の彼方まで、冒頭のダークスターのように飛んでいきそうな映画だった。
1980年代とは違った条件がいろいろとある。トムももう還暦だ。しかし、その全てを忘れて、新しい映画を作ってみせた。このいわば「忘却力」がこの映画の力の本質だろう。簡単に言えば、「バカみたいな映画」だった。もちろん、本当にバカになることは難しい。だがそれを成し遂げた。
それと同時に、冒頭のシークエンス、アイスマン=ヴァル・キルマーの登場、そしてすでに退役した、先述のF-14の登場といった、往年のファンの心をがっちりつかむサービスも忘れない。
そのような映画世界に観客を引きずりこむスイッチが、エド・ハリス演じる海軍少将の「君たちのような戦闘機乗りは絶滅の運命にあるんだ」という台詞に対する、マーヴェリックの「そうかもしれません。でもそれは今日じゃない(Maybe so, sir. But not today)」という返しだ。この「今日じゃない」にシビれてしまえば、あとはぼくらのマーヴェリックに身を委ねて、その活躍を心ゆくまで楽しめばいい。そんなスイッチなのだ。
MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。
プロフィール
(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。