前回私は、ヒーローものを扱うと言いつつ、まず期待されるであろうマーベルやDC映画ではなく、『トップガン マーヴェリック』と『オビ゠ワン・ケノービ』から話を始めた。もちろん今後、アメコミ系の作品を否応なく論じることにはなるだろう。だが、あえてそこから始めなかったのは、ある意図があってのことだった。
それは、本連載はマーベル論、DC映画論としてだけ書くのではなく、より広く「ヒーロー」というモチーフから現代社会を考えていきたいという意図だ。
そのために、今回はまず物語は「型」と「技」という二つの要素をつねに持っているということを確認したい。
「型」と「技」
「型」とは、あるモチーフには時代や文化をある程度横断したパターンが存在するということだ。個々の作品は、そのような型の中で、場合によってはその型と格闘しながら物語をつむぐ。いわばその個々の努力、個々の作品の実現が「技」なのである。
ヒーロー(英雄)ものにも、「型」があり、個々の作品の「技」がある。それを理解するためには、マーベルやDC映画だけに議論を狭めていては見えなくなるものが多いのではないか(もちろん、それらはそれ自体膨大な著述の対象になり得るけれども)。
そこで今回は、まずはヒーロー物語の「型」を確認するところから始めたい。
MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。
プロフィール
(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。