平成消しずみクラブ 第2回

いいんだヨ、これで

大竹まこと

 昔、祐天寺の安アパートで、知仁は、ギター片手によく歌った。
 ザ・カーナビーツの多分、あれは『好きさ好きさ好きさ』という曲だったと思う。
 最後のサビで「忘れられないんだ お前の全て」と絶叫するのだが、風間はその時、かならず、私を指さすのであった。指された私は勘弁してくれヨとばかり、両手をオーバーに広げて、皆の笑いを誘った。
 風間が、あの曲を歌うのではないかと、私は客席の隅でドキドキした。
 指をさされたら、どうする。又、昔のように、立ち上がって、大げさにアクションを返すのだろうか。
 しかし、その歌ではなかった。
 再び、舞台は回って、元の暗い家庭になり、風間の長い台詞が続いている。風間は良い役者だ。長い台詞を難なくこなすのはもちろんだが、黙っている時、なお魅力的だ。良い役者は黙っている時に、その片鱗を見せる。うまい役者は、その時に、何かやろうと企んで、客に見透かされる。風間はそれをしない。
 今、風間とは、昔の時間を取り戻すようによく会っているし、麻雀も楽しい。先日は焼肉を食べた。風間の奴、六十八にもなってキムチにマヨネーズをかけていた。私は思わず吹き出してしまった。

 風間が、私達の劇団をやめ、つかこうへいさんに誘われてから、ずいぶん長い間、付き合いが遠ざかっていた。私には、そんな気はなかったのだが、一人、売れてゆく風間に、気安く声はかけられなかった。
 後になってわかるのだが、風間も「いつまでも、昔の仲間との付き合いなどやめろ」と誰かにさとされたらしい。
 その後の活躍は目覚ましかった。同じつか作品の映画『蒲田行進曲』は大ヒットし、風間や平田満は世間に顔を売った。
 その頃、私達は、もうシティボーイズを結成して、地方のキャバレーやら、ビルの屋上にある、ビアガーデンの仕事で、その日を暮らしていた。
 風間の『蒲田行進曲』を三人で観た記憶がある。
 多分、すごく面白かったのだろう。私達は打ちのめされて、一言も口をきかずに劇場を後にした。
 たまたま仕事帰りだったので、私達のバッグには、小道具が詰まって重かった。
 斉木のバッグには、大きなマナ板とチョコレートパフェのグラス。
 きたろうのそれには、使い終わって余った大根やらニンジン、それに野菜クズ。
 私のバッグには、料理用の危険なほど大きい、本物の包丁が入っていた(その日仕事で使ったフェンシングの剣もはみ出していた)。
 どの位の時間がたったのだろう。今回芝居を観に来たのは、ある仕事がきっかけであった。
 私のもとに、本の朗読をしてほしいという仕事の依頼があった。
 それが、伊集院静さんのエッセイ(『大人の流儀』)で、デジタル配信になるという。
 荷は重かったが、その会社の担当の女性にとても熱心にくどかれ、又、私の功名心も手伝って、その仕事を受けた。実は風間も同じ会社の仕事で、『ハリー・ポッター』全巻をたった一人で朗読することになったらしい。
 その会社の取り計らいもあって、一席設けられ、風間からの誘いもあって、この客席に居る。
 舞台は、終盤に向かって、加速していく。そして最後又、初老の男が橋の上に立っていた。黙って立っていた。
 風間の楽屋を訪ねた。私は、舞台がはねても、人の楽屋には、あまり行かないようにしているのだが、この日は違った。会いたかった。

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連載では、シティボーイズのお話しはもちろん、現在も交流のある風間杜夫さんとの若き日々のエピソードなども。

プロフィール

大竹まこと

おおたけ・まこと 1949年東京都生まれ。東京大学教育学部附属中学校・高等学校卒業。1979年、友人だった斉木しげる、きたろうとともに『シティボーイズ』結成。不条理コントで東京のお笑いニューウェーブを牽引。現在、ラジオ『大竹まことゴールデンラジオ!』、テレビ『ビートたけしのTVタックル』他に出演。著書に『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』等。

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