彼の小説の重要なモチーフの一つとして、男としての弱さや情けなさにどう向き合うか、という問題があります。僕はその点に関心があります。
戦後日本の男としてどう生きていくべきか、その死生観はどうか、男にとって愛とは何か。百田尚樹はそういう泥臭く、実存的な問いを初期小説から、様々な形で試行錯誤していました。たとえば彼はクラシック音楽評論などで「弁証法的」(ある問題について肯定的な評価と否定的な評価がせめぎ合い、両者が統合されてより高い次元が開かれ、それを無限に繰り返していく、という意味での弁証法)という表現を使っていますが、彼の小説にもまた、男性問題をめぐる弁証法的な問いがある。
境界的なゾーンで発揮された才能
僕の見立てでは、百田尚樹の小説は、少なくとも東日本大震災の前までは、愛国主義的で家父長的な家族観とか、あるいは、家族・会社・国家が同心円的に一致してしまうような世界観を、素朴な形で主張していたわけではありません。
少なくとも小説の中では、ある時点までは、ネトウヨ的・ヘイト的・排外主義的なことを積極的には書いていません(庶民的リアリズムに基づく保守的傾向、あるいは、「おじさん」的な無神経さはもともとありましたが)。色々と試行錯誤しながら、それなりに真摯に、粘り強く、あるべき男性像を模索し続けていた。
たとえば『影法師』という時代小説では、世の中から評価されず、嘲笑され憐れまれている日陰者の男が、じつは、親友(主人公)の人生を支えるために無償の愛を――百田は男女間の「純愛」ではなくて、男性の親友同士の「殉愛」という言葉をよく使いますが――黙って貫きとおそうとします。初期作品の試行錯誤の果てに、そういう生き方を一つの理想像として提示したんですね。
ちなみに『影法師』は、現首相である安倍晋三氏にも何らかの影響を与えています。安倍氏は『永遠の0』よりも前に時代小説の『影法師』を読んでいた。しかも、第一次安倍内閣の時に惨めな失墜を経験していた安倍氏が「復活」し、自民党の総裁選で勝利して、もう一度総理大臣として甦っていくプロセスと、百田尚樹が東日本大震災の後に日本の復興を祈って「第二の主著」と自負する『海賊とよばれた男』を書き、それがベストセラーになっていくプロセスというのは、不思議に重なり合い、連関しています。
つまりそこには、詳しくはのちほど論じたいのですが、現実的な政治とフィクションが奇妙に入り混じりながら生成し、展開していった、という側面があったんですね。それは現実と虚構、物語と政治、意識と無意識などが絡み合う境界的なゾーンで、人々の情動をたくみに喚起していく、という小説家としての百田尚樹の才能とも関係しています。
そういう意味で、ベストセラー作家であり続けてきた百田尚樹の小説を今、まじめに読んでみることは、現代的な右派的・排外主義的なメンタリティの分析にもなるし、現代のこの国のマジョリティ男性たち――いわゆる中高年の「おじさん」ですね――がなぜ百田の小説や言葉を欲しているのか、ということの内側からの分析にもなるのではないか。
ベストセラー作家にして敏腕放送作家。そして「保守」論客。作品が、発言が、そしてその存在が、これ程までメディアを賑わせた人物がかつて存在しただろうか。「憂国の士」と担ぎ上げる者、排外主義者として蛇蝎の如く嫌う者、そして大多数の「何となく」その存在に触れた人々……。百田尚樹とは、何者か。しかしながら、その重要な手がかりであるはずの著作が論じられる機会、いわば「批評」される機会は思いのほか稀であった。気鋭の批評家、文芸評論家が全作品を徹底的に論じる。
プロフィール
藤田直哉
1983年生まれ。批評家。日本映画大学専任講師。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『虚構内存在:筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』、『シン・ゴジラ論』(いずれも作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)などがある。朝日新聞で「ネット方面見聞録」連載中。文化と、科学と、インターネットと、政治とをクロスさせた論評が持ち味。
杉田俊介
1975年生まれ。批評家。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。20代後半より10年ほど障害者支援に従事。著書に『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)、『無能力批評』(大月書店)、『長渕剛論』『宇多田ヒカル論』(いずれも毎日新聞出版)、『ジョジョ論』『戦争と虚構』(いずれも作品社)、『安彦良和の戦争と平和』(中公新書ラクレ)など。