百田尚樹をぜんぶ読む 第15回

『風の中のマリア』

藤田直哉×杉田俊介
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Clip to Evernote

ベストセラー作家にして敏腕放送作家。そして「保守」論客。作品が、発言が、そしてその存在が、これ程までメディアを賑わせた人物がかつて存在しただろうか。「憂国の士」と担ぎ上げる者、排外主義者として蛇蝎の如く嫌う者、そして大多数の「何となく」その存在に触れた人々……。百田尚樹とは、何者か。しかしながら、その重要な手がかりであるはずの著作が論じられる機会、いわば「批評」される機会は思いのほか稀であった。気鋭の批評家と文芸評論家が全作品を徹底的に論じる。

 

【杉田】これもまた異色作です。オオスズメバチたちが主人公の昆虫小説なんですね。

 

【藤田】かなり不思議な作品ですね。

 

【杉田】主人公はマリアというメスのハチです。彼女たちの巣は「女だけの帝国」と呼ばれます。オオスズメバチは、数いるヴェスパ(スズメバチ)の中でも最強の種だそうです。

 メスのハチたちは生まれながらの戦士であり、帝国のために人生を捧げます。恋愛もせず、子を産めず、戦い続けて死んでいく女たちが、やがて自分は何のために生まれてきたのか、何のために死ぬのか、という実存的な問いに憑りつかれていきます。

 途中でゲノムの話が出てきたりと、昆虫たちの生態をめぐる言わば生物学的ファンタジーの装いをしているんですが、明らかに、『永遠の0』でも主題化した特攻隊の問題をあらためて描き直しているわけですね。帝国主義的な侵略戦争のアレゴリーとして、オオスズメバチたちの女の帝国があります。

 ちなみに人間たちの実存的苦悩を、生物学的世界の知見によって相対化して吹き飛ばす、というのは、百田さんはエッセイ等でもよくやっています。

 

【藤田】のちの『カエルの楽園』でも、動物を使った寓話を書いています。『風の中のマリア』もその系統です。生物は遺伝子の乗り物であり、遺伝子の命令で動く、というドーキンスの説なども使っています。生物学的なところに、実存の意味、社会のあり方の意味を探る寓話である、と言えるかと思います。

 ただ、はたして百田尚樹はどの程度、そうした寓話と特攻隊などの歴史的・政治的問題を重ねていたのか。

 帝国が日本であり、ハチが日本兵であるなら、はっきりいって、これは相当ヤバい話になる。帝国の存続のために、他の昆虫から奪って侵略して、エサにしてもよいとか、そういう話が作中に頻出するわけだから。このメタファーを現実に当てはめると、結構危険な感じがします。

 

【杉田】基本的には、死んでいく無名兵士の死をなんとか意味づけたい、という動機が『風の中のマリア』にもあるでしょう。ここでも、父親や叔父たちの戦争体験を念頭に置いていたはずです。

  それを人間的な価値観によって意味づけようとしてもうまくいかないから、生物学や進化論の知識を持ってくるわけですが、しかしそれが結果的に、ニセ科学(疑似科学)を用いることによる帝国主義的欲望の正当化のようにも見えています。

 いわゆる「社会ダーウィニズム」(生物間における自然淘汰や生存競争の概念を人間社会に当てはめ、社会現象を説明しようとする立場のこと)など、進化論などの知見を援用して、弱者淘汰や植民地主義を正当化するというのは、ありふれたやり方であるわけです。

 ただ、『風の中のマリア』を読んでいる限りは、それほど自己正当化の嫌な感じもないんですよね。すがすがしさすらある。それはなぜなんだろう。

 まず、男性と女性を入れ替えてあるので、家父長制的なものやマッチョイズムが弱められている、ということもあるでしょう。それから、帝国主義的な欲望によって無名兵士の死を肯定しているように見えて、たんに生物学的な自然界の循環を虚しいもの、無意味で悲しいものとして、どこか諦観しているようにも見えるんだよね。

 『カエルの楽園』では、いわば在来種と外来種をメタファー化して、生物学などの装いのもとに、差別的な排外主義が正当化されています。しかしこれに対し『風の中のマリア』では、セイヨウミツバチとニホンミツバチの対比が出てきたりと、疑似科学に基づく排外主義の正当化になりそうなんだけど、そうはならない。あくまでも生物種の違いにすぎない。

Graphs / PIXTA(ピクスタ)

 それから、主人公たちに収奪され虐殺されるバッタやミツバチたちの側の視点もちゃんと描かれているんですよね。これも『永遠の0』にはなかった視点でしょう。戦いの過程自体を被害者や犠牲者の側から見つめ直す、という視点は。特攻隊や無名兵士の死を、帝国主義的な欲望で意味付けるという話になりそうなんだけど、なぜかそうはなっていない。メタファーの機能が失調してしまう、というか。

 

【藤田】人類の植民地主義や帝国主義的な仕組み自体が、遺伝子の命令にすぎず、それすら無意味かもしれない。そういうふうに突き放しながら、しかし結局、遺伝子決定論のようになっているようにも見える。自分たちの戦いは無意味であるからこそ、自分たちの無意味な死は次世代に受け継がれて、そうやって生命が循環していく、そこに救いがあるかもしれないし、全て虚しいのかもしれない、そういう達観の視点ですよね。

 最終的には生命の流れ自体を丸ごと肯定する、というところに行くわけです。考えてみれば、かなりえぐい話で、なにしろ容赦ない虐殺まで行っているわけだから。『永遠の0』の枠組みでは、こういう光景は描けないでしょう。

 

【杉田】うん。そうなんだよね。オオスズメバチの生においては、家族関係と国家関係が過不足なくぴったりと一致してしまう。そして最終的には家族や国家という単位すらも、大いなる自然の循環に吸収されてしまう。

 それはやはり日本的無常観というか仏教的諦観というか、たぶん危ういものなんだけど、そっちに突き抜けているために、家族主義やナショナリズムや愛国心が相対化されてしまっている、とも取れるわけです。しかしそうなってしまえば、やっぱり、生物学や進化論の認識によって人間たちの戦争や生死を意味付けるのは不可能だ、それは無理な試みだった、と途中で気付いたんじゃないかな。

 ここでもまた、色々なレベルの話があまり突きつめられずに絡み合っていて、はっきり言って失敗作だとは思うんだけど、なんか変な気持ち悪さというか、不気味さはある。それなのに、なんかすがすがしくもある。変な小説ですよ。

 

【藤田】しかし生命のゲノムが継承されていく流れの中に、個人の救いを求める、存在意義を求めるというのは、『永遠の0』以来、百田尚樹の中で一貫しているモチーフですね。戦いばかりに明け暮れて恋愛もできず死んでいくことの虚しさと、そういう死の意味づけですよね。ゲノムじゃなくて、ミーム(文化的遺伝子)の継承の場合もあるけれど。

 ある意味では、百田尚樹の骨格が結構分かりやすく出た作品、と言えるかもしれませんね。

 

【杉田】そうすると、昆虫を題材にしながらも、百田の実存性の相当ヤバいところがむき出しになった作品、と言えるのかな。

 

【藤田】だからこそ、昆虫小説という形で書かざるを得なかったんでしょう。これを人間の兵士や特攻隊の物語として書いたら、本当にヤバいですからね。

 

【杉田】容赦なく奪って、虐殺して、という話だもんね。

 

【藤田】それと関連して、百田さんは、戦争や争いはしょせん資源や利権の問題である、という身も蓋もない考え方を持っていることも分かるんですよ。

 

【杉田】確かに彼はその辺、実利的というか商人的なプラグマティストで、『海賊とよばれた男』でも、大東亜戦争とはしょせん石油問題なんだ、とはっきり書いています。動物的本能による資源をめぐる戦いであって、それは崇高な理想や人類史的理念とは何の関係もないと。

 でもこれって、ある意味で、右翼や愛国者の戦争観に比べると、なんのリスペクトや崇高さもない戦争観ですね。

 

【藤田】テリトリーにもうエサがない、だから他国にとりにいく、虐殺も起こる、という認識があるんですよね。そう思ってるんだったら、第二次世界大戦の日本軍の美化とは矛盾してくると思うんですけど、そこはどうなっているのかが分からない。ナマのまま出してしまったらヤバい何かを変形させていて、それだからこそ、大声で言っている思想的なメッセージを裏切る何かの気配を感じさせてくれて、僕はそれほど嫌いではないです。

 

 第14回
第16回 
百田尚樹をぜんぶ読む

ベストセラー作家にして敏腕放送作家。そして「保守」論客。作品が、発言が、そしてその存在が、これ程までメディアを賑わせた人物がかつて存在しただろうか。「憂国の士」と担ぎ上げる者、排外主義者として蛇蝎の如く嫌う者、そして大多数の「何となく」その存在に触れた人々……。百田尚樹とは、何者か。しかしながら、その重要な手がかりであるはずの著作が論じられる機会、いわば「批評」される機会は思いのほか稀であった。気鋭の批評家、文芸評論家が全作品を徹底的に論じる。

関連書籍

非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か

プロフィール

藤田直哉×杉田俊介

 

藤田直哉
1983年生まれ。批評家。日本映画大学専任講師。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『虚構内存在:筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』、『シン・ゴジラ論』(いずれも作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)などがある。朝日新聞で「ネット方面見聞録」連載中。文化と、科学と、インターネットと、政治とをクロスさせた論評が持ち味。

 

杉田俊介
1975年生まれ。批評家。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。20代後半より10年ほど障害者支援に従事。著書に『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)、『無能力批評』(大月書店)、『長渕剛論』『宇多田ヒカル論』(いずれも毎日新聞出版)、『ジョジョ論』『戦争と虚構』(いずれも作品社)、『安彦良和の戦争と平和』(中公新書ラクレ)など。

 
集英社新書公式Twitter 集英社新書Youtube公式チャンネル

プラスをSNSでも

Twitter, Youtube

『風の中のマリア』