百田尚樹をぜんぶ読む 第17回

『リング』/改題『「黄金のバンタム」を破った男』

藤田直哉×杉田俊介
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ベストセラー作家にして敏腕放送作家。そして「保守」論客。作品が、発言が、そしてその存在が、これ程までメディアを賑わせた人物がかつて存在しただろうか。「憂国の士」と担ぎ上げる者、排外主義者として蛇蝎の如く嫌う者、そして大多数の「何となく」その存在に触れた人々……。百田尚樹とは、何者か。しかしながら、その重要な手がかりであるはずの著作が論じられる機会、いわば「批評」される機会は思いのほか稀であった。気鋭の批評家と文芸評論家が全作品を徹底的に論じる。

 

【杉田】戦後日本の英雄的ボクサー、ファイティング原田についてのノンフィクション作品です。僕はこれが百田尚樹の全作品の中でも、最高傑作の一つだと考えています。ボクシングという競技にとても誠実に向き合っている。

 百田尚樹という人は、ボクシングやクラシック音楽や囲碁など、自分が本気で愛している対象、リスペクトしている対象に向き合うとき、変な屈折がなくなって、素直になるんですよ。

  つまり、「ノンフィクション的」なポストモダン作品(『海賊とよばれた男』は「ノンフィクション・ノベル」と銘打たれています)と、まじめでガチな「ノンフィクション」は、百田尚樹において微妙に異なるのではないか。ボクシングとかクラシックとか碁とか、本当にリスペクトする対象に対しては、自己投影をせずに、割と誠実になる。これはたとえば『殉愛』等とは全く質が違うと感じました。

 まず、戦後復興のシンボルになった白井義男の話からはじまります。彼は戦争を生き延びた兵士なんですね。昭和一八年に国内でボクシング興行が禁止され、その後徴兵されて飛行機整備兵となり、次の任地が硫黄島に決まっていたけれど、大型の輸送機が準備できずに結局硫黄島には行かなかった。白井が硫黄島に行っていたら、戦後のボクシングの歴史は変わっていただろう、と百田は言います。特攻隊ではないけれど、その点では『永遠の0』とのつながりを感じさせます。

 戦後にボクサーを再開して、鳴かず飛ばずだったんだけど、引退寸前の二五歳でアメリカのカーン博士(GHQの将校だったそうです)というトレーナーに出会って、ディフェンスの大切さを学び、アメリカ的な合理的ボクシングを身につけた。和魂米才というか、日米が手を組んでアウフヘーベンされた。

  当時の日本人の観客には、軍国主義的な肉弾戦、肉を切らせて骨を断つ式のボクシングが好まれていたんだけど、そこに打たせずに勝つという新しいスタイルを導入した。卑怯者と罵られたりもしたのですが、勝ち続けて、ベルトを奪取し、国民的なチャンピオン(フォークヒーロー)になっていく。

  その白井が失ったフライ級のチャンピオンベルトを取り戻す、という当時の日本国民の悲願を実現したのが、ファイティング原田だった。ちなみ原田は『三丁目の夕日』と同じ「金の卵」と呼ばれた集団就職の世代にあたります。

 

【藤田】僕もこれは比較的好きです。ボクシングに魅力があった時代のことを追体験させてくれる。

  ただ、ノンフィクションとしてはちょっと変で、語り手が結構前面に出てくることが多い。自分の父親や家族の経験に基づいて、ボクシングをどう受容したか、とか。ビデオで試合を見ていることに言及したり。当時は、敗戦後の日本人を元気づけるためのスポーツとして、ボクシングが機能していたことが重要ですよね。

 

【杉田】たとえば『リング』では、ファイティング原田とブラジルの「黄金のバンタム」と呼ばれた偉大なボクサー、エデル・ジョフレとの関係がいちばんメインになります。ジョフレは『あしたのジョー』のホセ・メンドーサのモデルともなったボクサーですね。

  この場合、百田尚樹はボクサーという人間自体を尊敬しているから、その尊敬は、人種や民族、国籍を超えていきます。ブラジルやメキシコやアメリカのボクサー、あるいはアルゼンチンからドミニカに亡命した「小さな巨人」パスカル・ペレスや、タイ王国初の世界チャンプ「シャムの貴公子」ポーン・キングピッチなど、彼らのことを国籍では判断しません。

  お互いが死力を尽くして戦うんだけど、栄光を勝ち取る人もいれば、転落して惨めな死を遂げる人たちもいる。そういうボクサーたちの人生を、国籍や民族とは関係なく、あるいは勝ち負けにすら関係なく、淡々と追っていく。

Graphs / PIXTA(ピクスタ)

 自分が心から尊敬するものに分け隔てなく愛情をそそぐ。すると、その先には、百田なりの運命論が浮かび上がってくる。最終的には、勝ち負けや生き死には、偶然の問題だと言うんですね。単純なようだけど、これは重要なポイントだと思う。それは全ては運だ、という諦めやニヒリズムとは微妙に違う。そこには人間の努力や能力を超える冷徹な「何か」が働いている。それが「歴史」なのかもしれない。『永遠の0』やのちの『幻庵』にもそういう非情な偶然の手触りがあります。勝ち負けや生死を超えるような、歴史的な偶然性。

  たとえば、ファイティング原田とジョフレの世界タイトルマッチをレフェリーとして仕切ったバーニー・ロスという人の人生に注目しています。

  ロスは、アメリカの貧困家庭出身のボクサーで、境遇に負けず三階級制覇を成し遂げた偉大なボクサーであり、引退後に兵士としてガダルカナル島に送られています。激戦に巻き込まれて仲間の多くは戦士、彼自身も重傷を負いますが、なんとか生き延びて帰国する。麻薬中毒になりますが、再び立ち直って、レフェリーとなって再度ボクシングの世界に関わった人です。

  どうやらロスのファイトスタイルは、原田によく似ていたみたいなんですね。原田とジョフレの最初の試合の時、判定はかなり微妙だった。百田の想像によれば、ロスは現役時代のボクサーとしての自分の姿を、日本人の原田に投影していた。それで結果的に原田が僅差でチャンピオンになった。「世紀の大番狂わせ」が起こった。日本とアメリカのボクサーが、ある意味で弁証法的に止揚されて、国民的なチャンピオンが生まれたわけです。

 原田は、努力型の不器用な選手であり、チャンピオンになっても質素な暮らしを少しも変えなかった。引退するまで童貞だったらしい(この辺へのこだわりは百田尚樹らしいですが)。だからこそ、原田は、戦後の日本人にとってのフォークヒーロー(民衆のヒーロー)になれたのではないか、と百田は言います。

 終わり方もすごくいいと思う。ずっとあとに、ジョフレは原田を母国に呼び寄せて、歓迎したいと連絡してきたんだけど、じつはジョフレはひそかにスパーリングの練習をしていて、原田が来たらやっつけてやろう、と思っていたそうです。ボクサーの業の深さと負けん気とユーモアがあって、いい話だなと思いました。

 

 

【藤田】『リング』のボクサーに対する視線は確かに比較的公平で、それしか生きる道がない者たちへの尊敬と哀しみに満ちた視線ですが、どうも日本の選手とそれ以外への扱いは違うようにも感じます。

  日本選手の敗北についてはコンディションや運が悪かったとか、外在的な理由になる。外国の選手が勝つと、ズルがあったとか判定がおかしかったとか……。

 

【杉田】そこまでアンフェアには書いてないんじゃない?

 

【藤田】さっきも言いましたが、これもノンフィクションと言いながら、フィクションも混じっています。フィクションというか、思い入れと言ってもいいかもしれません。この時期のボクサーたちは、民衆のヒーローであり、戦争に負けた日本が復活するという物語を背負わされていた。プロレスの力道山と同じように。だからノンフィクションでありながら、良くも悪くも、百田尚樹はニュートラルには接せられていない。

  そのような国民的なヒーローが成立しえて、物凄い視聴率を取っていた時代を丸ごと再現しようとする物語、という意味でも、レトロトピアっぽい。

  そして、これは興行でもあったわけですよね。試合の背景となった興行や駆け引きの側面も描かれています。お金のかかった興行だから、インチキくさい部分も含むわけです。そこについては割と想像で色々と書いている。純粋な実力や運だけではない。その辺りが、高校生たちの純粋な試合に特化された『ボックス!』とは違うところでしょう。

 

【杉田】いや、そういう興行や不純な面もありながら、それも含めて、最終的には冷徹な運としか言えない面がある、という運命観が示されていると思うんだけどな。いい日本人/悪い外国人という物語にはなっていないと僕は思う。

 

【藤田】繰り返しになりますが、現在では困難になってしまった「国民的なヒーローがいた時代」そのものを再現した作品だな、と感じます。テレビマンとして、何故それが可能だったのか、研究しているかのようでもあります。

 

【杉田】確かに『リング』には、意図としては『海賊とよばれた男』と重なる面もあるでしょう。厳しい苦境に置かれた男が、国民の期待を背負って戦いに勝利し、それがメディアの力を通して増幅されて、日本国民をナショナリズム的に鼓舞することになった。ただ、『リング』の場合、もちろんそういう面もありながら、動機や思想の面で、『海賊とよばれた男』とはかなり違うものを見つめている気がしました。

 

【藤田】確かに、『海賊とよばれた男』に比べたら、『リング』は比較的ニュートラルに近いし、視線のあり方が違いますよね。『リング』の方が、慈愛があるというか……。

 

【杉田】囲碁を扱った『幻庵』なんかも、正直小説としては全然面白くないんだけれども、ひたすら碁で勝った負けたの話が延々と書かれています。碁やボクシングに対してはリスペクトが先立つから、過度な物語やメディアイベンターの側面が削ぎ落とされて、そのノンフィクション度が強まるのではないか。『リング』はその最良の成果である、と僕は思うんですけどね。

Graphs / PIXTA(ピクスタ)

【藤田】付け加えれば、これも階層移動の話ですね。みんな貧しいし、教育も受けていない。杉田さんが日本人選手と外国人選手を対等に書いている、と言ったのは、生い立ちと成功後の描写であり、貧しい環境から裸一貫で、死ぬ思いをしてのし上がって、世界チャンピオンになったはいいけど、その後身を持ち崩してぼろぼろになっていく。その儚さの面では、確かに平等に見えます。これは先ほどの『モンスター』の構造ともかなり似ています。

  そういう残酷なスポーツであるボクシングの一瞬の美しさをとらえようとしている。ボクシングを題材とする百田尚樹は、比較的いい感じですよ。

 

【杉田】『リング』では、勝った人間が惨めに転落し没落していく過程をも描いていますね。ペレスの悲惨な末路とか、「無冠の帝王」と呼ばれたメキシコのジョー・メデル(『あしたのジョー』のカーロス・リベラのモデルの一人と言われる)の不運とか、昭和三〇年代後半に三羽烏と呼ばれたラッシュの原田、かみそりパンチの海老原博幸、メガトンパンチの青木勝利のうち、忍びないほどに転落して行方不明になった青木のこととか。そこも含めて一人の人間の人生なんだと。

  アメリカ人と日本人のパートナーシップが特権的ではありますが、アルゼンチンやブラジル、メキシコの選手に対しても比較的、対等な目線が注がれている。その点では『永遠の0』のような、戦後レジーム的な日米関係に閉じていく作品とは、少し違うんじゃないかな。

 

 

【藤田】『ボックス!』と『リング』の違いは、原田に対する描写です。「打たれても打たれても、ひるむことなくつねに前に向かっていく原田の勇敢な姿に、私は日本をもう一度世界に伍する素晴らしい国にしようと懸命に頑張っている当時の日本人の姿がだぶってみえる」とか。「あるいは、戦争で何もかも失い裸一貫になった日本人は、同じように裸一貫で世界の強豪相手に戦う原田に自分の姿を重ねていたのではないか」とか。

  たぶん、当時のファンは本当にそう見てたんだと思うんですよ。しかし、ボクサーの個人的な戦いに日本人のアイデンティティを重ねる、という語り方は『ボックス!』にはなかった。それは百田が東日本大震災の後に、復興のためにどういうヒーローが必要か、を考えた時にもサンプルになっていそうです。

 

【杉田】震災前に刊行された単行本の『リング』(二〇一〇年)と、それを文庫化し改題した『「黄金のバンタム」を破った男』(二〇一二年)では、もしかしたら、微妙に内容が違ったりしませんか。

 

【藤田】いや、単行本のほうも僕は読みましたが、もともとこういうニュアンスでしたよ。

 

【杉田】そうか。確かにそういう面はあるんでしょうね。ただ、戦後世代のおじさんとして、あるヒーロー的存在と日本のナショナルな復興を重ねるという側面を、僕は全否定する気はないんですね。それは彼らの世代の特権的な欲望としてあっただろうから、ある程度はやむをえない。ただ、それをどういう形で重ねているか、がポイントでしょう。

  『ボックス!』との違いは、『リング』では、純粋な肉体の戦いだけではなく、試合の背後の興行や政治や国策などの、複雑な力学が作用しているわけですよね。生死を懸けた闘争の純粋さによって、現実の世俗性を超えられないわけですよ。

 しかしその上で、勝負の勝敗は「紙一重」だ、という感覚がある。百田はそこにこだわるわけ。勝つか負けるかは、究極まで行くと偶然によって決まる。そこに人間の運命の怖さがある。ただ、勝った人間の栄光と、負けて転落した人間の惨めさとが、ある目線においては、対等で等価であると。そういう感覚ですよね。輝かしい国民的ヒーローと、無名のまま歴史から消えていく人間の悲惨さと、それら両方があって今のボクシングの歴史がある。

  それは『永遠の0』の特攻隊員の運命とも重なるかもしれない。無名で死んだ兵士と戦後を生き延びた兵士は「紙一重」であり、かつ等価なんだと。それが人間の運命なんだと。その辺が、確かにヒーロー的存在を通してナショナルアイデンティティを情念的に煽っている面もあるんだけど、そこからズレていくものがあるんじゃないか。僕はそう読みましたけれどもね。

 

【藤田】政治的な状況や期待、興行・商業など、色々な事情の中で翻弄されながら、しかしその中で、奇跡のような試合がある。その後の人生はそうであれ、その瞬間は美しい。そこを描いたという点では似ている。『永遠の0』もそうかもしれませんね。『リング』は、その美しい純粋な瞬間と、政治・興行の絡み合いの領域により踏み込んでいった作品ですね。

Graphs / PIXTA(ピクスタ)

【杉田】そこはテレビ人間としての百田尚樹が譲れないところなのかな。『ボックス!』は、学生のボクシングであることで、純粋で美しい闘争の面を抽出できた気がするんだよね。政治や水面下の駆け引きを考えずにすむ。しかし、現実はそうではない。

 『リング』のボクサーたちは大人のプロであり、よくも悪くも、政治や駆け引きや国の威信を背負わされながら、それでも戦わざるを得ない。それでもそこに、生の意味が宿る瞬間があるはずだと。僕はそっちの不純さ、雑然さに魅かれますけれどもね。

 

【藤田】しかしそれは、なまぐさい政治的現実を散々見てきたからこそ、高校生たちの純粋な戦いをフィクションとして描きたかった、ということなのでは。二つの作品で、役割分担している気がしますね。そして僕は『ボックス!』の方を推します。

 

【杉田】そこは僕と藤田さんの関心の違いなのかもね。いずれにせよ、『ボックス!』と『リング』は双子の片割れ同士であり、両方をセットで読んでいかないといけない。

 

【藤田】複眼的に見ないといけないですよね。

 

【杉田】ファイティング原田についても、テレビやメディアが作り出した虚像としてのヒーローである、という側面だけではない、と言いたいんだろうね。テレビの虚像であり、かつ、庶民生活に根差したヒーローであると。だからスーパーヒーローではなく、フォークヒーローである、と言うんでしょう。

 

【藤田】当時は視聴率もとんでもないですよね。ボクシングが国民の熱狂の対象だった時代は、テレビというメディアそのものが国民を熱狂させた時代でもあった。百田が放送作家としてテレビ業界に入ったのは、そこからテレビの価値がはるかに下落した時代でしょう。

 

【杉田】だから、ボクシング業界が興行のためにチャンピオンの数を無闇に増やして、チャンピオンベルトの価値をひたすらデフレ化させてきたことに対しては、何度も何度も批判しています。価値の頽落と下落の中をずぶずぶに生きながら、テレビやボクシングが人々を熱狂させた時代の復活を熱望するという感じは、ファシズム的欲望という感じもするんだけどね。

 第16回
第18回 
百田尚樹をぜんぶ読む

ベストセラー作家にして敏腕放送作家。そして「保守」論客。作品が、発言が、そしてその存在が、これ程までメディアを賑わせた人物がかつて存在しただろうか。「憂国の士」と担ぎ上げる者、排外主義者として蛇蝎の如く嫌う者、そして大多数の「何となく」その存在に触れた人々……。百田尚樹とは、何者か。しかしながら、その重要な手がかりであるはずの著作が論じられる機会、いわば「批評」される機会は思いのほか稀であった。気鋭の批評家、文芸評論家が全作品を徹底的に論じる。

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プロフィール

藤田直哉×杉田俊介

 

藤田直哉
1983年生まれ。批評家。日本映画大学専任講師。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『虚構内存在:筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』、『シン・ゴジラ論』(いずれも作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)などがある。朝日新聞で「ネット方面見聞録」連載中。文化と、科学と、インターネットと、政治とをクロスさせた論評が持ち味。

 

杉田俊介
1975年生まれ。批評家。自らのフリーター経験をもとに『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を刊行するなど、ロスジェネ論壇に関わった。20代後半より10年ほど障害者支援に従事。著書に『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)、『無能力批評』(大月書店)、『長渕剛論』『宇多田ヒカル論』(いずれも毎日新聞出版)、『ジョジョ論』『戦争と虚構』(いずれも作品社)、『安彦良和の戦争と平和』(中公新書ラクレ)など。

 
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