なぜM-1は国民的行事になったのか 第3回

M-1らしさと「王道思想」

手条萌

敗者復活戦の誕生

「ガチ感」のある漫才大会として始まったM-1。回を追うごとに、その大会コンセプトが突き詰められ、それに芸人も順応してきた結果、現在では「国民的行事」の位置にまで上り詰めた。

しかしM-1は、大会初期から現在のような確固たるコンセプトや人気があったわけではない。そこには出場者、OBOG、スタッフ、審査員、そしてウオッチャーの試行錯誤の歴史がある。

たとえば第2回を開催するにあたり、第1回より制度やシステムの変更があった。

もっとも象徴的なのは、前回の連載でも触れた一般審査員制度の廃止である。この変更の背景には、大阪会場の一般審査において東京芸人の点数が極端に低くなってしまったということがあるものの、M-1という大会が民意ではなく権威を重視するという方向性を否が応でも示すことになった。

また、特筆すべきは、敗者復活戦が導入されたことだろう。

この制度は、準決勝まで勝ち進んだものの決勝に行くことができなくなかった芸人たちを対象に敗者復活戦を行い、観客投票(旧M-1は抽選一般審査員+プロ審査員審査)で選ばれた一組だけが決勝に行けるという救済措置である。「準決勝で落ちてもまだ可能性はある」と負けた芸人たちが「ガチ」で戦う敗者復活戦は、M-1の一つの見所になった。

敗者復活戦が生むドラマ

敗者復活戦がM-1の見所の一つになった理由は、勝ち上がってもハンデを背負った状態で、決勝を戦うという点にある。敗者復活戦に勝ったコンビは、敗者復活戦の会場からM-1の会場に移動させられ、即漫才をやらなければならない。漫才をする直前まで、決勝の雰囲気や流れがわからないというのは、場の空気を読み、観客を掌握することが求められるM-1においては敗者復活をしたコンビは圧倒的に不利なのである。それでも、過去に敗者復活戦からチャンピオンになったコンビは存在する(サンドウィッチマン、トレンディエンジェル)。そうしたドラマがあるからこそ、敗者復活戦出場者たちは一縷の望みに賭ける。また、優勝できなくとも、敗者復活にて勝ち上がることによって、補足つきではあるが「M-1ファイナリスト」の称号は与えられる。「n年連続ファイナリスト」「n回目の決勝進出」などの戦歴はその後の芸人人生に大きく影響するため、敗者復活戦に参加した芸人はなんとしてでも勝ち上がりたいことだろう。

敗者復活戦のもう一つの見所は、「野外開催」であることだ。昨今は12月の極寒の野外での開催についてSNSを中心に疑問の声も出始めているが、出場者たちを「敗者」とイメージ付けするための演出なのであろう。旧M-1(2001年-2010年)では敗者復活戦の会場はテレビ朝日からほど遠いパナソニックセンター東京前特設会場、神宮球場、有明コロシアム、大井競馬場で行われていた。勝ち上がった漫才師が年末の東京を背景にタクシーに乗り込みテレビ朝日に向かう様子に胸が熱くなった人も多いことだろう。敗者復活からの優勝を果たしたサンドウィッチマン(2007年)、敗者復活の翌年に優勝を決めたアンタッチャブル(2004年)のほかに、特に印象的なのは2008年のオードリーだ。熱気を纏い登場し、見事準優勝を手にした彼らは、2019年敗者復活戦のVTR内で「朝、モノレールで大井競馬場に行き、夜には世界が変わっていた」と当時のことを述懐していた。ドラマを生むのは、どの年も敗者復活戦からの決勝進出者である。

新M-1(2015年-)においてはテレビ朝日敷地内の六本木ヒルズアリーナでの開催で固定となり、移動や中継のための効率を求めながらも、野外開催にはこだわり続けている。そして新M-1の敗者復活戦は救済措置の意味に加え、お祭り感、ビッグコンテンツとしての扱いが加えられた。その「お祭り感」を増すための最大の特徴は、テレビ中継と視聴者投票システムである。

一般投票は、M-1にとっては第1回で事件を生んでしまった苦々しいシステムであり、現在でも人気芸人が勝ち上がると「人気投票では?」との批判にさらされている。2018年の敗者復活戦前には、人気投票となってしまうことを危惧した前年チャンピオンのとろサーモン久保田が、自身のツイートにて審美眼を持って投票することを呼びかけたりなど、芸人サイドからも疑問が提示される場合もある。しかし、投票と中継がセットになっていることで、M-1を国民的たらしめた要因のひとつとも言える。「決勝の一枠は、中継を見ている自分たちによって決まる」という体験は、たまたま中継を見た一般視聴者にも真剣な鑑賞を促す。旧M-1から新M-1の5年間で飛躍的に浸透したインターネットや、双方向のコミュニケーションを重視した施策によって国民の動員に成功している。

くわえて、全国中継により敗者復活戦を勝ち上がったコンビ以外にも注目が集まるようになった。代表的なのは2020年の敗者復活戦のニッポンの社長のネタ中に起こった、ボケのケツが猫のモノマネを長い尺でし続けるというボケを行っている最中に、五時のチャイムが鳴りはじめたという「事故」である。ネタのシュールさと静かさの中でチャイムが響くという光景は、お笑いファンのSNSのみならず、芸人の中でも語り草にされたのち、最終的にニッポンの社長自身が単独ライブでもネタにしたことで彼らの代名詞になった。

ただでさえ不利な状況で、このような事故があったことは、敗者復活戦を勝ち進む上ではマイナスであったことは間違いない(結果は15組中9位)。しかし、敗者復活戦の様子が全国放送されていたことにより、この事件はお笑いファン以外にも広まり、ニッポンの社長の認知度は格段に上がった。この事故は、敗者復活戦の上位になるよりも、はっきり言って相当おいしかったことだろう。敗者復活戦が輩出するスターは、必ずしも決勝進出者だけではないということが示された瞬間だった。

旧M-1の試行錯誤

このように敗者復活戦だけでもかなりの見どころがあるのだが、話を旧M-1に戻そう。

一般審査員の廃止と敗者復活制度の導入のみならず、第2回目は様々な変更が行われた。前年準決勝に行った芸人たちは、1回戦が免除になる「シード権制度」の導入。決勝進出者のなかから優勝を決めるファイナルラウンドが、上位2組から3組に増枠。ただし、決勝進出者は10組から敗者復活を含む9組に減少した(2016年の12回から再び10組に戻る)。

くわえて、第3回には出場資格が「結成10年未満」から「結成10年以内」に変更(現在は15年以内)。第5回からは決勝のセットや演出が一新し、現在のM-1のような華やかな舞台が用意されるようになった。

このように、初期のM-1はまさに試行錯誤の歴史だったといえる。

あらゆる賞レースの手本となったM-1、迷走するR-1

決勝進出組数や審査方法などが回を追うごとに変更されることは、新しい大会が生まれた黎明期にはよくあることである。しかし、大会のルールを頻繁に変えてしまうと、どのような賞レースなのかが大衆に印象付かないだけでなく、その選出基準がフェアではないように思われ、信頼を損なう場合がある。

その代表例が、ピン芸人の日本一を決めるR-1グランプリである。2002年から続くこの大会は、ファイナリストの人数や審査方法が年によって変わり、信頼が揺らいでいる。特に問題視されているのは、2021年大会から突如「芸歴10年以内」というエントリー制限が導入されたことだろう。エントリー開始直前のこの決定は、ピン芸人たちには知らされておらず、彼らを失意のどん底に陥れた。この状況を、同じくピン芸人のこがけんと結成したユニット「おいでやすこが」でM-1予選を勝ち進んでいたおいでやす小田は「寝て起きたら漫才しか残っていませんでした」と表現した。

信頼の失墜にとどめを刺したのは、2023年大会の採点表示ミスだろう。トップバッターのYes!アキトの点数が表示される際、なぜかまだ出番ではない田津原理音の点数「470点」が一瞬表示されたこのミスに加えて、なぜかラパルフェ都留の獲得点数の合計も誤っていたのも不信感を大きくさせる要因となった。とはいえ想定できる範囲のミスではあるのだが、特に厄介だったのは、この470点というのが実際の田津原理音の獲得点数と一致してしまっていたことである。この不幸な偶然により「優勝者はあらかじめ決まっているのではないか」などの憶測が広がり、大会自体の公正性を疑う声が大きくなってしまった。

この件について2020年R-1チャンピオンでもあり、審査員でもある野田クリスタルは、自身がパーソナリティーを務める「マヂカルラブリーのオールナイトニッポン0(ZERO)」の2023年3月9日放送内で「スタッフなどがお地蔵さんを蹴っているからこんなことが起ってしまうんだ」などと表現していた。もちろん本当にスタッフがそんなことをやっているのではなく、これはあくまで比喩である。

仮にお地蔵さん=ピン芸人であるならば、彼らへのリスペクトが足りないということを暗に指摘している。このラジオで野田は、採点に用いられるパソコンのバージョンが古いことをはじめとして、人員やシステム整備が追いついていないという問題や、予算が少ないことを笑いを交えながら語ったが、R-1を取り巻く混乱は、ピン芸人が不遇の状況にいることを象徴している。

そもそも賞レースの目的のひとつは、審査対象となる演芸の価値を高めることである。2008年よりスタートした「キングオブコント」を例に挙げてみよう。この大会は、開始当初「コントは漫才と違って評価しにくい」「審査に好き嫌いを反映しやすい」といったネガティブな意見が向けられていた。しかしそのような印象を跳ね返すべく、何度もルールや審査方法の変更を行い試行錯誤を続けてきた。その結果、芸人審査を廃止した2015年頃から方向性が固まり、今や価値ある賞として大衆にも認識されている。

賞の存在によって演芸の価値を上げた

このキングオブコントがロールモデルにしたのが、いうまでもなくM-1である。旧M-1終了時の2010年時にはすでに「M-1は漫才の浸透と価値向上に寄与した」と吉本興業は説明していたが、大会システムを整備し、賞レースの権威付けを行うことで、演芸の価値を上げるということが、あらゆる賞レースの手本となった。

旧M-1の10年とは実績自体を積み上げる期間であり、その実績そのものがM-1と漫才の全国における価値を向上していったのだ。

「M-1やなあ」

M-1の出場資格を失った後にYouTubeでM-1グランプリの解説をはじめ、自らを「Mおじ」と名乗るスーパーマラドーナの武智という芸人がいる。彼はことあるごとに「M-1やなぁ」という言葉を発するのだが、この「M-1らしさ」が生まれたのが第3回から第5回大会であろう。

これまで見てきたように、手探りの第1回、第2回大会を経て、3回目以降からはシステムや仕組みがほぼ固定化され、第5回にしてセットや基本的な演出面がほぼ固まった。その時期のM-1で起こったことは、のちにすべて「M-1らしさ」として語られるようになったのである。

そのため旧M-1のファイナリストやチャンピオンたちの芸風がのちに、「M-1らしい漫才」とされるようになった。この時期は、当時baseよしもとやうめだ花月といった漫才の本場関西の劇場に出演していたコンビの躍進が顕著であった。

第3回(2003年)王者のフットボールアワー、第5回(2005年)王者のブラックマヨネーズ、第6回(2006年)王者のチュートリアルといった90年代末にデビューしたコンビの優勝は、大阪吉本若手のひとつの成功モデルとして語られ、彼らのスタイルを指して「王道」と呼ばれるようになる。

旧M-1の初期である2002年までの大会の試行錯誤を経て、中期ともいうべき2003~2006年頃までの「王道」とは、奇を衒いすぎず、漫才のスキルやわかりやすさを重視したネタ、具体的には若手の劇場に所属し、M-1にてネタが評価され、その後のバラエティで平場力も認められ、全国区でブレイクし、MCや冠番組を展開……というブレイクの仕方までを包括した言葉である。

東京吉本所属の関西出身芸人の素敵じゃないか・柏木成彦が2020年大会の際に「2000年代のM-1優勝から売れるという王道の流れを未だに追っています この時代M-1以外で売れる道はあるけど漫才師ならその日本一を決める大会で優勝しないと嫌なのです」と熱いツイートをしていたが、まさにこの「王道」こそが多くのM-1出場芸人の憧れであり、現在も続くM-1らしさなのである。

この「賞レースで優勝してバラエティで認められる」という「王道」が定着し、多くの芸人の憧れになっている背景には、関西の賞レースとバラエティ文化がある。2022年のM-1ファイナリスト、カベポスターが自身のラジオ番組「夕凪カベポスター」(MBSラジオ、2023年5月21日)内で「関西の賞レースでタイトルを取得していった先にあるのが『せやねん!』(MBS)などの関西で存在感のある番組群であり、それらに出演することが『吉本の兄ちゃん』という感じがする」と語っていたが、この「吉本の兄ちゃん」というのが関西出身芸人の伝統的な王道を指している。M-1の王道とは、「吉本の兄ちゃん」の全国版とも言える。

旧M-1中期の王道思想

このように関西の賞レース文化をごく自然に受け取っている大阪出身の芸人、あるいは大阪吉本所属の漫才師たちがM-1という全国大会へ臨むにあたって重視するものは、王道を歩むことができるネタとキャラクターであった。

連載の第2回では、競技漫才の萌芽について言及したが、こうした漫才が定着した理由の一つが、旧M-1中期に生まれた「王道思想」である。

王道を歩むためには優勝することが重要であり、優勝するためには漫才の主題をブレさせず内容、傾向と対策を練らなければならない。その結果、ネタが競技化していったのである。

これはもちろん、関西芸人だけの問題ではない。関東芸人もブレイクのためにはM-1で結果を残す必要がある。とくに、大阪と異なりローカルな賞レース文化の薄い関東においては、M-1こそが唯一の大きな賞レースであるため、芸人たちのM-1への思い入れは強い。

くわえて関西のように寄席の漫才文化があまり根付いておらず、伝統芸能としての漫才との関わりが薄かったことから、賞レースに対応した競技漫才は関東でも定着した。

こうした要因が重なり、旧M-1中期に競技漫才の下地がしっかりと固められていったのだった。しかしあくまでも、優勝してブレイクする「王道」を歩くための手段としてであり、現在のように漫才のあり方自体を解体するような漫才や、漫才の定義について議論を呼ぶネタも、そこまで多くはなかった(特に当時はSNSも存在していなかったため、「バズ狙い」という概念もなかった)。

また、このころから漫才師がアスリート然としてきた印象もある。たとえば2005年には2004年大会を振り返るM-1写真集「MANZAI ONE  M-1グランプリ2004フォト・メモリアルブック」(ぴあ)が刊行されたのだが、この本の帯にはすでに「M-1戦士」という表現が使用されていた。こうしてアスリートらしさ、すなわち、別にネタ以外ではボケなくていいし、賞レースにガチになってもいいという雰囲気が醸成されていった。

彼らをアスリートのように見ることができるようになったのは、シードや敗者復活などの建付けが固まってきたことによる「応援」のしやすさもポイントだろう。スポーツ的な建付けで、観客の意識もウオッチャーからサポーターのような感覚へと変貌していった(2020年からは実際に「M-1サポーターズクラブ」が発足し、サポーターの存在がオフィシャルのものとなった)。

しかし王道とマンネリは隣り合わせでもある。旧M-1中期の課題があるとするのならば、ファイナリストが割と順番待ち要素が多かったことだろうか。ファイナル常連メンバーがいることで、マンネリの印象を強めてしまう。そして旧M-1が終了の選択を取る必要があった理由は、他でもない、王道が確立してしまったことである。

また、唯一のブレイクスキームがM-1であるという認識が広まると、閉塞感が強くなってくることは否めない。「M-1は漫才の浸透と価値向上に寄与した」という旧M-1終了時の吉本興業のコメントは、裏を返せば「現行のM-1は漫才の王道を示した時点でその役割を終えた」ということでもある。

その結果、旧M-1の反省を活かした2015年からの新M-1は王道へのアンチテーゼを積極的に採用し、ファイナリストの選考も新顔が多くなるような基準も見え隠れする。現在のM-1は、M-1らしさを表現しつつマンネリを防ぎながら新しい風も吹かせなければならないというジレンマを抱えている。

いずれにせよ、現在も続くM-1というブランドとその「王道」の確立は、旧M-1中期において重要な出来事だった。

 第2回
第4回  
なぜM-1は国民的行事になったのか

いまや漫才の大会としてのみならず、年末の恒例行事として人気を博しているM-1グランプリ。いまやその人気は「国民的」とも言える。なぜあらゆるお笑いのジャンルのなかで、M-1だけがそのような地位を確立できたのか。長年、ファンとしてお笑いの現場を見続けてきた評論作家が迫る。

プロフィール

手条萌

てじょうもえ

評論作家。広島県尾道市生まれ。『カレーの愛し方、殺し方』(彩流社、2016年)で商業デビュー。『平成男子論』(彩流社、2019年)のほか、『ゼロ年代お笑いクロニクル おもしろさの価値、その後。』『2020年代お笑いプロローグ 優しい笑いと傷つけるものの正体』『漫才論争 不寛容な社会と思想なき言及』『お笑いオタクが行く! 大阪異常遠征記』『上京前夜、漫才を溺愛する』など多くの同人誌を発行している。

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M-1らしさと「王道思想」