なぜM-1は国民的行事になったのか 第4回

笑い飯から「ちどかま」へ

手条萌

独自路線の系譜

前回の連載では、旧M-1(2001~2010年)における「王道思想」について考察した。旧M-1では、王道と呼べるネタやブレイクスキームが生まれていき、そのことが多くの漫才師をエントリーへと向かわせた。消えてなくなりそうだった伝統芸能としての漫才が、今日(こんにち)まで生き残り、それどころか多くの人の憧れとなったのも、「王道」が生まれたからである。

その一方で、王道ではなくても、大会のなかで存在感を放った多様な漫才や、多くの芸人に影響を与えた「独自路線」ともいえる漫才も数多く生まれてきた。そしてこの独自路線の系譜もまた、王道を歩んだ漫才師と同じくらい、あるいは象徴として歴史を紡いでいったのだ。

旧M-1と笑い飯

2000年に哲夫と西田幸治が結成したコンビ、笑い飯は、旧M-1と運命を共にした芸人である。

笑い飯は吉本興業の養成所NSCを卒業していないインディーズ出身(西田氏はNSCに入学後に退学)で、代名詞ともいえる「Wボケ」の漫才を磨き上げ、異彩を放つイレギュラーな存在であった。漫才に革命をもたらし、旧M-1、そしてゼロ年代以降の漫才の道のひとつを作ったのは、まぎれもなく笑い飯である。

第3回大会(2003年)に披露された「奈良県立歴史民俗博物館」は、架空の博物館を舞台に哲夫と西田が交互にボケてはツッコむネタ。そのボケの手数の多さや着眼点の鋭さは、全審査員から絶賛され、お笑い好きなら誰もが知るマスターピースとして知られている。ほかにも第9回大会(2009年)で披露し、島田紳助が100点をつけた「鳥人」など、笑い飯のネタはこれまでのどんな漫才とも一線を画すものであるという印象を、M-1の視聴者に植え付けた。彼らは、笑いへのストイックさと、自身が考える「おもしろい」ものへの感覚に対する信念ゆえに生み出されている作品群、そして大衆に媚びない姿勢によって、多くの漫才師から憧れられている。

新M-1にてよく見られるボケとツッコミの型に嵌らない漫才の系譜は、笑い飯から始まっていると言っていいだろう。しかし、新M-1の予選などで披露される「型に嵌らない」ことを目指した漫才は、往々にしてカオスでむちゃくちゃになってしまうことが多い。その姿勢は若いエネルギーやバズるための野心を感じるが、その背景に特に思想も見られない。

笑い飯の漫才は、ただただフィーリングに頼ることによって生まれたものではない。特に哲夫氏は上方演芸への造詣や文化への知識が非常に深く、あらゆるインプットや経験のうえに独自のネタが成り立っていると言える。M-1と笑い飯の関係性についてはノンフィクション『笑い神 M-1、その純情と狂気』(中村計,2022,文藝春秋)に詳しいが、そこで語られていた中で特に印象的なのは、哲夫氏の1960年代の吉本新喜劇のスター、花紀京への憧れである。同時代に活躍した吉本新喜劇の象徴である「ギャグ」を巧みに扱う岡八朗ではなく、「筋」(芝居のながれに沿った笑い)の美しさを見せつけてくる喜劇人、花紀京の名前を挙げるところからも哲夫氏の目指す漫才像が見えてくる。

笑い飯は唯一無二の形、すなわち「筋の道」を作り、そして自らの生き方やスタイルまでもM-1の王道とは異なる独自路線を歩み続けた。しかし、彼らは邪道を作り歩んだのではなく、旧M-1の象徴として多くの若手芸人の憧れの的となり、(それが笑い飯の表層を真似しただけの無思想なネタだったとしても)漫才の多様性に寄与したという解釈が正しいだろう。こうして風前のともしびだった漫才という文化は、伝統芸能の側面を残しながらも高度に発展していった。旧M-1のテーマだった「漫才の浸透と価値向上」に笑い飯は大きく貢献し、旧M-1最後の年(2010年)にトロフィーが、9回目の出場にして彼らの手に渡ったのだった。

「ちどかま」という新しい価値観

笑い飯の弟分的存在である千鳥もまた、NSCを経ておらず、旧M-1においても文字通り「クセがスゴい」、すなわち王道からは外れた漫才を行っていた。しかしここで注目すべきは千鳥は全国的に大ブレイクを果たしているということだ。たとえば、同じく王道のブレイクスキームをひた走っているかまいたちは、その漫才自体も非常にハイレベルかつ、王道である。

彼らは、いまのお笑いの世界において「ちどかま」とも呼ばれ、連日連夜テレビスターとして活躍し劇場にも立つ、吉本所属の芸人の中心的存在を指す言葉になりつつある。千鳥とかまいたちの活躍は、どんなタイプの漫才でもおもしろければブレイクできるということの証左である。あるいは、漫才内での応酬やそれぞれのキャラクターがバラエティ番組に応用できると判断され、重宝されているという言い方もできるだろう。

ちなみに、かまいたちの濱家氏も若手時代に笑い飯・哲夫氏の家でのお笑い修行を経験している。超スパルタであったらしいが、こうして培ったお笑いの地力は、どんな漫才や場面にでも活きていくということを彼らは身をもって証明し続けている(※1)。

そして、現代ではちどかまのような王道ブレイクスキームではない独自路線でのブレイクを見せる芸人たちもいる。たとえば南海キャンディーズの山里亮太氏は「くすぶり系」芸人として自らをブランディングし、ラジオを中心に熱烈なファンを増やしていったことによって、朝の帯番組MCを務め、自らの半生がドラマ化(『だが、情熱はある』日本テレビ)されるにいたった。

こうした「ちどかま」的な存在が比較されるのは、ダウンタウンであろう。ダウンタウンは、NSC卒業後、漫才師を経てテレビスターとなった芸人にとっても最高のモデルケース。お笑いの世界においては、ダウンタウンのような状態を「天下」と呼ぶ。そして、多くの芸人は、届かないと感じつつキャリアの最終目標として「天下」を目指し、その第一歩としてM-1を目標としてきた。しかし、「ちどかま」が見出したのは、単に「天下」を目指すことではなかった。彼らは、ダウンタウンが唯一手放したものである劇場出番を続行しつつ、日夜大量の仕事を行っていくことによって、ダウンタウンとも、あるいは「ビッグ3」と呼ばれるタモリ・ビートたけし・明石家さんまの三人や、とんねるず、ウッチャンナンチャンなどの「お笑い第三世代」とも異なる芸人像を提示しようとしているのである。

彼らの世代がなぜかつてのような「天下」を目指せなくなったのか。その要因として、テレビの衰退やウェブメディアの発展が主に挙げられるだろうが、そもそも芸人たちの価値観が多様化しているという事実も見逃せない。現在では、漫才におけるスキルとバラエティでの振る舞う能力はまったく異なるということを自覚しているプレイヤーも少なくなく、漫才での成功を目指す芸人とテレビバラエティでの成功を目指す芸人とでは歩む道も異なってくる。

また、劇場配信やYouTube、オンラインサロンなどで観客を集め、売上を立てることが可能になったことによって、テレビなどに出演して大衆の支持を得る、すなわち「売れる」必要がないという価値観を持った芸人も増えている。なかには、好きなようにネタだけをやっていき、その活動を大衆ではなく自分たちを支持してくれる限られた数のファン(「スーパーファン」)のみに支えられたいという、スーパーファン理論で活動している人たちも多い。

こうした多様化も、M-1の功績のひとつである。現在では予選のネタもYouTubeなどにアクセスできるようになったことで、光るものがある芸人は、どのようなスタイルであれ「発見」されやすくなった。そこで発見され、ファンを増やしていけば、前述したような多様な方法で芸人として「食っていく」ことはできる。テレビ露出を経るか経ないかはさておき、お笑いだけで食っていくことを可能としたのは、漫才見本市としてのM-1である。

※1 「かまいたち濱家は、笑い飯哲夫の「彼女やん!」 山内が疑う哲夫宅での“濃厚”お笑い合宿」スポニチ、2023年2月11日

 第3回
第5回  
なぜM-1は国民的行事になったのか

いまや漫才の大会としてのみならず、年末の恒例行事として人気を博しているM-1グランプリ。いまやその人気は「国民的」とも言える。なぜあらゆるお笑いのジャンルのなかで、M-1だけがそのような地位を確立できたのか。長年、ファンとしてお笑いの現場を見続けてきた評論作家が迫る。

プロフィール

手条萌

てじょうもえ

評論作家。広島県尾道市生まれ。『カレーの愛し方、殺し方』(彩流社、2016年)で商業デビュー。『平成男子論』(彩流社、2019年)のほか、『ゼロ年代お笑いクロニクル おもしろさの価値、その後。』『2020年代お笑いプロローグ 優しい笑いと傷つけるものの正体』『漫才論争 不寛容な社会と思想なき言及』『お笑いオタクが行く! 大阪異常遠征記』『上京前夜、漫才を溺愛する』など多くの同人誌を発行している。

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笑い飯から「ちどかま」へ