なぜM-1は国民的行事になったのか 第5回

人生の「夏」としてのM-1

手条萌

12月まで続く「夏」

多くのお笑いウオッチャーは、季節の移り変わりをM-1関連のイベントで感じているはずだ。

毎年6月末から7月上旬にかけて、M-1グランプリの開催が発表される。「いきなり生電話ライブ」と銘打って、前年大会で爪痕を残した組や注目すべき組にエントリー予定をヒアリングする様子を配信したり(20、21年)、前年ファイナリストや有力候補が登壇する記者会見を配信したりなど(22、23年)、その開催の発表自体が目玉コンテンツとなるほど存在感を増している。

こうして「夏」のはじまりが正式に発表されると、劇場からは5月までの長閑な雰囲気は徐々に消えていき、漫才師たちは一気にM-1対策ムードになっていく。

M-1をめぐる1年の流れは下記の通りだ。

6月末~7月上旬…M-1開催決定、エントリー開始

8月末…1回戦開始、エントリー締切

9月~10月…1~3回戦

11月…準々決勝

12月…準決勝、決勝(+敗者復活)

2月~4月頃まで…M-1ツアー

近年のエントリー数の増加により1回戦が長引いているため、今後どのようになっていくかはわからないが、現状はこのスケジュールで動いている。

一般的には、M-1は12月の決勝をもって終了しているように見えるが、興業としての醍醐味は「M-1ツアー」だ。セミファイナリスト以上が出場するこのツアーの終了をもって、正式にM-1が終わる。

M-1ツアー中の年明けから5月末までの劇場には割と自由なムードが漂っている。企画されるライブも夏以降の「対策型」のものではなく、いったん戦いを忘れたような自由なものが増えていく。

ちなみに、観客としてM-1対策型ではないお笑いを堪能したいのならば、この時期のライブに行くことを推奨する。ただ、緊張感は意図的に排除されているので、そもそもトークやコーナーなどに特化し、ネタをしないライブもある。そのため、賞レースしか見ない人だと「ぬるい」と感じることもあるかもしれないし、劇場の寄席でネタ終わりにいちいち講評をする人(ライブ中に喋るな)にとっては物足りない時期ではある。

逆に言えば、M-1をはじめとした賞レースでガチガチに固められた年間スケジュールにおいて、つかの間の休息として貴重な時間なのである。そしてやがてシーズンインして「夏」が始まっていく。

ちなみにこの「夏」という表現について、9番街レトロの京極氏が「M-1で「夏」って言うてんの出場者とコアなお笑いファンだけですよ。放送冬やから。」とX(旧 Twitter)でポストしていたが、それに対してゆにばーす・川瀬氏が「夏と秋と冬がM-1やで」と引用していた。このやり取りに象徴されるように、「夏を制するものが受験を制す」ではないが、意気込みが大きければ大きいほど12月まで「夏」が続いていくのである。

最初に胸を締め付けられるポイントは8月末にやってくる。エントリーの締切だ。ちなみに、エントリーが早ければ早いほど若いエントリーナンバーがもらえる。本年では、21年大会ファイナリストの「もも」がエントリーナンバー1、スーパーマラドーナ武智氏の称号である「Mおじ」ならぬ「Mガキ」として、新たなM-1解説キャラとして活躍中の木佐氏がツッコミを務める「翠星チークダンス」が2を取得したことが話題になっている。実際はエントリーをするかしないかというのは非常にデリケートなトピックであるため、ラストイヤーが近づくにつれギリギリまで提出を控え、事前に出場の意向を語らない組も多くなる。

公式HPへの反映が完了するまでに10日ほどかかるが、ウオッチャーはここで非常にやきもきすることになる。特に贔屓の組がいる場合は何度も検索をかけて、本年のエントリーナンバーが付与されているかどうかを確認する。ここ数年では、有力な組がエントリーされるとたちまちX(旧Twitter)でコンビ名がトレンド入りし、公式HPのサーバが落ちる。それを何度か繰り返し、9月も10日頃を過ぎたあたりで役者が揃う形になるのであった。

そして9月から1回戦、2回戦と進んでいくのだが、この段階ではまだお祭り感が強い。この時期に注目されるのは、若手の芸人や個性派芸人、芸人が本業ではない、あるいは事務所に所属せずに大会に出場するアマチュア出場組である。子供の漫才師や、仮装などが強烈なグループ、既存の漫才の発想からは外れたアイディアで勝負してくる組、YouTuberのユニットなど多岐にわたる(早速今年も小学生女子の漫才コンビ「ラブリースマイリーベイビー」がSNSで話題になっている)。21年、22年には、20年のM-1チャンピオン、マヂカルラブリーが我流ぞろいの1回戦で異彩を放った漫才師をピックアップする配信企画「マヂカルスターを探せ!」なども行われたように、1回戦の魑魅魍魎感はプロにとってのガチのM-1とはまったく異なる、独特の雰囲気がある。

さて、そんな妖怪たちのお祭りを経てあらかたアマチュアが落選したあと、鬼門の3回戦が開催される(※1)。3回戦からはほとんどがプロで、東西をあわせだいたい300組ほどが残るのだが、ここからはおなじみの修羅の道だ。平素の寄席やライブもM-1対策型となり、気温が下がっていくたびに徐々に漫才師たちから瞳の輝きが消えていく。

そして秋から年末にかけて、世の賞レースムードは高まっていく。10月頭に開催されるキングオブコントを終えると世間はM-1を思い出し、二刀流のコント師は漫才に切り替え、女性芸人たちはThe Wを気にしながらそれぞれの時を過ごす。

そして有名どころや売れっ子が脱落していく中、お笑いの賞レースであるにもかかわらず、笑みの消えた12月を迎える。

※1 ちなみに本年から一部ルールが改訂された。前年大会の「準決勝進出組」だった1回戦シードを「準々決勝進出組」に変更、1回戦のネタ時間を15秒短縮、既存の「ナイスアマチュア賞」「ベストアマチュア賞」に加えて、「キッズ漫才師」「地方漫才師」を表彰する賞も新設するとのことである。

一億総漫才師時代

こうした流れで1年が終わっていく。さて、ここで重要なのは、国民的な存在になる条件として、年間を通した流れがあるというのはマストかもしれないということだ。身近な例でいうとプロ野球のペナントレースやJリーグ、あるいはかつて「国民的」と呼ばれたAKB48グループの総選挙やそのほか企画など、年間を通したルーティンにできるというのは人々に季節や「夏」の訪れを感じさせるという面で、感覚に訴えるものがあるだろう。

そしてもう一つ言及すべきは「参加型」であることだ。

もちろん、ペナントレースやJリーグも、ウオッチャーたちはファンやサポーターとして参加ができる。しかしM-1がもう一つ踏み込んでいるのは、ウォッチャーとしてのみならず、2000円のエントリーフィーと引き換えに、プロアマ問わず誰でも出場者になれるということである。ただひとつの「結成15年以下」という条件さえ満たせば。

旧M-1時代にはアマチュアのファイナリストも生まれたが、予選のYouTube公開や、先述の「マヂカルスター」などの企画を伴う新M-1においては、アマチュアにとってはさらに気軽に参加がしやすく、より国民に寄り添ったものであると言える。

M-1がどこか遠くの出来事ではなく、「我が事」として迫ってくるのは、誰でも参加できるという限りなく広い間口ゆえに他ならない。このあたりは48グループの総選挙も、投票という行為で当事者となれるという面で、似た構造であっただろう。

国民的とは、どんな形であっても「我が事」にさせる力のあるもののことを指す。

21年の決勝では、おそらく「ONE PIECE」のオマージュとして「大漫才時代」とタイトリングされているが、「お笑い冬の時代」と呼ばれている旧M-1終了の2011年から2014年頃から考えると、明確な時代の移り変わりを感じる。

かつては、定義もぼんやりとしている「お笑い8年周期」(ビッグスターが8年周期で現れるという説。フジテレビの2000年代のお笑い番組「新しい波8」の由来でもある)など、一つの定説で芸人たちをパッケージングできていたが、現在はすべての芸人がM-1優勝を目指す「一億総漫才師時代」という言葉に象徴されているように、主に「MCRW」(M-1、キングオブコント、R-1、THE W)と呼ばれる4大賞レースが中心に据えられ、お笑いの歴史を積み上げているところであると言えるだろう。

M-1を必要としない芸人たちー卒業という美学、「いっちょあがり」という憧れ

多くの現役M-1出場者は、戦うべき時期のこと、すなわちM-1のエントリー資格のある15年以下の芸人人生のことを「青春」と表現する。あるいは、「Quick Japan」の朝の情報番組「ラヴィット!」特集号で「#毎朝が青春」というキャッチが躍っていたように、青春とはお笑いの世界のなかで結果を求める、今を生きるような熱さを表現しているのだろう。

しかしいつまでも青春の中にいるわけにはいかない。「青春をしているようでは勝てない」とは野田クリスタルの言だが、戦う季節を終わらせて大人にならなくてはならない時期が必ず来る。若手芸人と呼べる期間である15年というタイムリミットに、ほとんどのM-1戦士は翻弄される。

しかし一方で、M-1を必要としないコンビも存在する。

まず一つは、コントの「一刀流」だ。

たとえば空気階段は、2021年に見事キングオブコントの王者に輝き、今もなおコントの専門家、そしてラジオスターとして存在感を見せ続けている。今夏開催した全国ツアー「無修正」では2万人を動員するなど、非常に多くの人から支持されている。彼らの人気の高さは、キングオブコントの称号を得たことによるところも大きいだろうが、M-1を経由していないというのは他のコンビと大きく異なる点だ。

また、彼らと同じく歴代のキングオブコント王者であり、オンラインサロンにおいて強い支持を得ているジャルジャルや、主軸にしている漫才とはまた一風異なる、独特のキャラクター描写と物語展開を得意とするかまいたち、現役M-1世代のニッポンの社長、ロングコートダディは、M-1とキングオブコントのどちらにおいてもファイナル、セミファイナルに進出している、俗にいう「二刀流」である。ブレイクの手段、あるいは何らかのとっかかりを求めて、できるだけ多くの賞レースにエントリーするというのは、ブレイク前の若手にとって基本的な考え方である。同じ理論で、正規でコンビを組んでいるか否かを問わずR-1にエントリーしたり、女性であるならThe Wにエントリーをしたりすることだろう。

そんな中で、コントの一刀流という道を選んだ場合、賞レースはM-1以外のエントリーとなる。その時点で従来型の王道や、新しい形としての「ちどかま」的天下からは

外れることになるが、「コントで食べていく」というコント師が目指す道は、彼らにとってはM-1で得る名声や国民の称賛などよりも輝いて見えるだろう。

また、ネタ以外のところで活動している人たちもM-1を必要としない。たとえばYouTubeでドラマや映画を考察、解説をしているXXCLUBの大島育宙は、必ずしもネタで評価されることが仕事につながると考えていないと明言している。ネタ以外で自分の強みを出すという視点ではM-1以前のお笑いシーン的でありながらも、それがテレビ露出を必ずしも目的としないということも、多様化する価値観を体現している例である。

そしてもっとも言及すべきは、過去にM-1で良い結果を残したことがありブレイクし、ネタにもこだわりがあるが、だからこそもはやM-1に出ることが得策ではないと考える人たちである。すなわちラストイヤーを待たずして「卒業」する人たちのことだ。

たとえば、自社の独特な運営や単独ライブが大好評のさらば青春の光、二刀流で毎年単独も人気のニューヨーク、それぞれのピンの仕事が激増したおいでやすこが、漫才よりもコント志向になりつつあり、かつ、それぞれの活動が多い、相席スタートなどが挙げられる。彼らの中には。ラストイヤーまで数年を残している人もいるので今後のことはわからないが、現状ではエントリーを控えている。

そしてもっとも言及すべきは、漫才にこだわるがゆえにM-1から卒業することを選んだ和牛である。制限時間や表現などの制約も多く、ポイントを稼ぐことを目的とした競技漫才から脱却したいという想いから、M-1への卒業を選んだ。まさに美学である。あるいは見取り図のように、すでにブレイクしており、結果がおそらく振るわないことも想定しており、かつ、競技漫才から脱却したいという想いがあるにもかかわらず、最後の年まで出ることを美しさとした組もいる。

どうやってそれぞれのM-1を終わらせるかというのは、これからどう生きるかの意志表明でもあるだろう。何より元来、卒業も「らちがあく」という意味でおめでたいことなのだ。

しかしどんな人たちも、どこかで線を必要がある。15年経つと自動的に引かれる線を引くか、あるいは自分たちの手で引くのか。

そういった意味で、すべての芸人は例外なくM-1という概念に巻き込まれることになる。

(次回へ続く)

 第4回
第6回  
なぜM-1は国民的行事になったのか

いまや漫才の大会としてのみならず、年末の恒例行事として人気を博しているM-1グランプリ。いまやその人気は「国民的」とも言える。なぜあらゆるお笑いのジャンルのなかで、M-1だけがそのような地位を確立できたのか。長年、ファンとしてお笑いの現場を見続けてきた評論作家が迫る。

プロフィール

手条萌

てじょうもえ

評論作家。広島県尾道市生まれ。『カレーの愛し方、殺し方』(彩流社、2016年)で商業デビュー。『平成男子論』(彩流社、2019年)のほか、『ゼロ年代お笑いクロニクル おもしろさの価値、その後。』『2020年代お笑いプロローグ 優しい笑いと傷つけるものの正体』『漫才論争 不寛容な社会と思想なき言及』『お笑いオタクが行く! 大阪異常遠征記』『上京前夜、漫才を溺愛する』など多くの同人誌を発行している。

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人生の「夏」としてのM-1