中東から世界を見る視点 第9回

聖地エルサレムに生きる人びと

川上泰徳
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800年前にエルサレムを奪還したクルド人武将の末裔

 旧市街のイスラム地区でケバブなどアラブ料理店を開いている店主は、ムハンマド・バグダディと名乗った。「バグダディ」という名前は、バグダッド出身であることを示す。「家族はバグダッドから来たのですか」と問うと、店主は「祖父が150年ほど前にエルサレムでイスラムを学ぶためにやってきて、最後はエルサレムのイスラム裁判所の裁判官を務めた」という。

 エルサレムは、イスラムではメッカ、メディナに次ぐ第3の聖地である。神殿の丘の上にはいまもイスラム委員会に所属するアルアクサ―・イスラム学校がある。中学、高校にそれぞれ男子部、女子部があり、計170人の学生が学んでいる。その学校で、「13世紀には、エルサレムに70のイスラムを学ぶ学院があった」という話を聞いた。

 欧州から送られた十字軍によって、12世紀末からエルサレムはキリスト教徒に支配されたが、12世紀後半に、クルド人のエジプト王サラディンが奪回した。13世紀というのはその後である。

 エルサレムで仕事の関係などでたまたま出会った人間に、個人の経験や家族の話を聞くと、予想もしない話が出てくることは珍しいことではない。ヨルダン川西岸に行く時に案内人を頼むことが多かったエルサレム在住ジャーナリスト、アタ・ケイマリの経歴にも驚かされた。

 ケイマリはパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の元活動家で、1960年代後半、反占領闘争で16歳から14年間、イスラエルの刑務所で服役し、85年の捕虜交換で釈放された。現在はイスラエルの新聞の記事をアラビア語に翻訳、配信する事務所を持つ。ヘブライ語は刑務所で学んだ。「新聞もラジオもヘブライ語だった。敵の言葉でも重要な情報源だ」。服役3年ほどで毎日、新聞の主要ニュースを翻訳して、刑務所で回覧するようになった。

 82年にアラファト議長らパレスチナ解放機構(PLO)がイスラエル軍の包囲でベイルートを追われ、チュニスに逃れたニュースもヘブライ語で知った。「刑務所では絶望的な雰囲気が広がり、1カ月ほどは誰もペンを持って仲間に闘争を訴えるものはなかった。私は1日も休まずニュースを配信した。それが私にとっての闘争だった」

 釈放後、30歳でラマラのビルゼイト大学に入学。87年末に西岸・ガザの占領地で始まった第1次インティファーダで各派が集まる統一指導部にかかわった。戦車に石で立ち向かう闘争として知られるが、中心は、イスラエルの占領に対する住民の組織的な不服従運動だった。「車が道路で5分間停止する、家々で黒旗を掲げるなどの様々な指令を指導部が出し、住民が実行した。イスラエルとは異なる夏時間を決め、パレスチナ時間をつくったこともある」と語る。

 ケイマリは93年9月に、PLOがイスラエルとの間でパレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)を締結し、パレスチナ自治政府が設立された後、PFLPから離れた。オスロ合意に組織としてどのように対応するかを話し合う会議で、ケイマリは「合意は、我々の闘争が生んだ子供だ。問題があっても、しっかり育てれば我々に解決をもたらすかもしれない。見捨てるのは無責任だ」と発言した。しかし、PFLPは合意を拒否したのである。

 ケイマリは政治的にも宗教的にも柔軟な思考を持ち、かつ、パレスチナ社会で幅広い人間関係を持っていた。政治的にも、彼が所属していたPFLPを超えて人脈があった。それは、イスラエルの刑務所で様々な政治組織の活動家たちと出会ったためだという。

 ケイマリ個人の経歴にも驚いたが、彼の家族はもともとクルド人だと聞いて、さらに驚いた。それも、サラディンが十字軍からエルサレムを奪回する戦いの時に、現在のイラク北部から兵を率いて援軍に来た武将の末裔だという。800年前の話である。

 ケイマリの家族も祖父母の代まで旧市街に住んでいたが、父親は旧市街の外に住むようになった。旧市街のキリスト教地区に入る「新門」の入り口付近には「ケイマリ・モスク」という彼の家の名を冠したモスクがある。さらに、旧市街にあるケイマリ家の地所に建つ建物を訪ねた。そこに店子として住む男性ジャミール・ヌーリーは、欧州のロマ人と同根で、アラビア語で「ガジャル」と呼ばれる人々だった。彼もまたパレスチナ人である。祖先はインドから来て、独自の言葉を持つ。「妻とは自分たちの言葉で話す。子供たちはもうアラビア語しか話さない」と語った。

元活動家のジャーナリスト、アタ・ケイマリ

 

大虐殺の記憶を抱えるアルメニア人たち

 キリスト教徒には、キリスト教地区の他にアルメニア人地区がある。アルメニア人は紀元前にカスピ海の西方から現在のイラク、トルコ、シリアにかけて王国を樹立したが、紀元後4世紀初めに世界で初めてキリスト教を国教とし、キリスト教国となった。そのため、早い時期からエルサレムに巡礼を行い、拠点を持ったという。

 現在、旧市街に住むアルメニア人に聞くと、1915年にオスマン帝国領(現在のトルコ)で起こった「アルメニア人大虐殺」の話が出てくる。100万人から150万人が殺されたといわれるが、キリスト教地区にある写真店の主人ケボルク・カフベジヤンの父親エリアは、大虐殺の生き残りだった。ケボルクが語る父エリアの物語は、こうだ。

 大虐殺が起きたのはエリアが5歳の時で、両親は幼いエリアを連れて逃げたが、逃げ切れなくなって、見知らぬクルド人にエリアを託した。ところが、クルド人はエリアを鍛冶屋に売り飛ばしたのだ。エリアは一日中、ふいごで風を送る仕事をさせられた。少しでも手を抜くと、鍛冶屋の主人は「お前は金貨2枚の価値しかない」と怒鳴ったという。その後、エリアはアルメニア人の孤児を保護していた米国のキリスト教組織に保護され、レバノンの孤児施設に入った。そこで写真の技術を学んだ後、アルメニア人地区があるエルサレムに移り、聖地の写真家となった。

 いま、写真店にはエリアがとった3500点のモノクロ写真が販売されている。エリアは英国の統治政府の仕事も任されていたため、歴史的な写真もある。さらに、多くの旧市街の人びとの写真を撮り、イスラエルが建国される前のエルサレム旧市街の様子を伝える貴重な記録となっている。その一枚は、「アラブ人占い師に運勢を見てもらうユダヤ人客」というもので、旧市街の道路わきに座ったアラブ人の前で、ユダヤ人の若者が腰をかがめて覗き込んでいる構図。かつて旧市街でアラブ人とユダヤ人が共存していたことを示す一枚だ。

父が撮った「アラブ人占い師に運勢を見てもらうユダヤ人客」を示すケボルク

 

 アルメニア地区で虐殺の生存者の聞き取りをしている、歴史家のジョージ・ヒンティリアンに話を聞いた。アルメニア人地区における虐殺の最後の生存者は、2012年、100歳を直前にして世を去った。虐殺の時は乳飲み子で、ベイルートの孤児施設で「メリー」と名付けられた。ヒンティリアンによると、虐殺の生存者はみな心に深い傷を負っていたが、メリーだけはいつも明るく、前向きで、周りを励ますような人柄だった。「悲劇の記憶がなかったからだ」とヒンティリアンは言った。虐殺で死んだ両親の記憶もないまま育った「悲劇の子供」が、周りを励ますような女性に育ったという話が印象に残った。

 ヒンティリアンの父親も、17歳で虐殺から逃れて、エルサレムのアルメニア人地区に移って来て落ちついたという。「ここは誰にとっても神の居場所であり、外から逃げてくるものを受け入れる場所だ」と語った。

 ヒンティリアンはアルメニア人だが、同時にパレスチナ人でもある。彼は旧市街のアルメニア教会の敷地の中にある住宅に住んでいる。同じ敷地の中にアルメニア人のアルバート・アガザリアンも住んでいる。ビルゼイト大学の歴史学教授で、1991年にマドリードで開かれた中東和平国際会議ではパレスチナ代表団の一員としてプレスセンター長だった。当然、パレスチナ人である。

かつては「ユダヤ系パレスチナ人」がいた

 ひと言でパレスチナ人と言っても、これほどの多様性がある。

 エルサレムは聖地であるため、世界中から人を呼び寄せる。居ついてしまう人々は、パレスチナ人となる。パレスチナ人とはアラブ人と同義ではなく、アラビア語ではない独自の言語を持つアルメニア人やガジャルなど、非アラブ人を含む。パレスチナ人は人種や民族や宗教を超えて、エルサレムに生まれ育った者をさすと考えた方がいいかもしれない。

 そうなると、1948年の第1次中東戦争前にエルサレム旧市街に住んでいたユダヤ人は、ユダヤ系パレスチナ人ということになる。アルメニア人の写真家エリアが旧市街で撮影した写真ではないが、英国の委任統治領だったパレスチナでは、アラブ人とユダヤ人は隣人として暮らしていたのである。

 私はエルサレム特派員だった時、イスラエル建国前に旧市街で生まれ育ったという老婦人と会ったことがある。エルサレム郊外にあるイスラエル国立ヘブライ大学付属ハダサ病院の待合室に、腕にギブスをしている少年が母親と一緒にいた。その隣にいた白人の老婦人がアラビア語で「どうしたの?」と話しかけた。母親が「走り回って転んで腕を折ったんです」と説明した。話が終わった後、私はその老婦人に「アラビア語はどこで勉強したのですか」と聞いた。すると、彼女は「私はエルサレムの旧市街で生まれて10歳までアラビア語で生活していました。学校もアラビア語でした」と答えた。彼女の家は、7代前にセルビアから移って来たユダヤ人だったという。

 1948年以前の生活を知っているパレスチナの老人から「イスラエルができる前は、ユダヤ教徒のパレスチナ人がいて、一緒に暮らしていた」という話を聞くことは珍しくない。今年は第1次中東戦争から70年目の節目であるから、イスラエル建国前のことを覚えているのは80代以上となる。パレスチナ人とユダヤ人が共存していた記憶を持つ者たちは、双方の側で年々少なくなっている。

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中東から世界を見る視点

中東情勢は、中東の国々と中東に関わる国々の相互作用で生まれる。米国が加わり、ロシアが加わり、日本もまた中東情勢をつくる構成要素の一つである。中東には世界を映す舞台がある。中東情勢を読み解きながら、日本を含めた世界の動きを追っていく。

関連書籍

「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。元朝日新聞記者・中東特派員。中東報道で2002年ボーン・上田記念国際記者賞。退社後、フリーランスとして中東と日本半々の生活。著書に『「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)、『イラク零年』(朝日新聞社)、『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)など。共著に『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)。

 
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