ホロコーストを生き延びたユダヤ人
私は2013年春、エルサレム旧市街にどのようなユダヤ人が住んでいるのかを取材した。ユダヤ人地区には約2000人のユダヤ人が住み、その多くはイスラエル建国後に海外から来た移民だという。
古いユダヤ人の生活を再現する博物館を訪ねた時、その博物館を開いたのは、1948年以前にユダヤ人地区で生まれて育ったラビカ・ヴァインガルテンというユダヤ人女性だと知った。ラビカは2013年2月に90歳で他界した。息子のモシェは「母は生まれたときと同じ家で息を引き取った」と語った。
ラビカは旧市街のユダヤ教のラビ(宗教指導者)の娘だった。1948年のイスラエル建国をめぐる紛争を描いたノンフィクション『おおエルサレム!』のプロローグで、同年5月に委任統治の終了で旧市街から撤退する英国軍の士官が、旧市街のシオン門の鍵を、ユダヤ人ラビのモルデハイ・ヴァインガルテンに手渡す場面が出てくる。ラビカの父親である。
ラビカの息子モシェはイスラエルで生まれ、1967年に初めて旧市街に戻った時、15歳だった。「母親から旧市街での生活の話を聞いて育った。エルサレムは私のルーツだった」とモシェは語った。ラビカは旧市街で、アラブ人にアラビア語で気軽に話しかけたという。「母はアラブ人との平和と共存を信じていた」とモシェは言う。
ラビカのことは、アルメニア人のアガザリアン(前出)と話している時にも話題に出たことがあった。アガザリアンは「彼女は、ビント・ルバラド(町の娘)だからね」と親しさを込めて語った。
旧市街のユダヤ人地区で出会ったユダヤ人で記憶に残ったのは、ハダサ病院の外科部長を務めたこともある医師のツビ・ヤエルである。ヤエルの家の2階のベランダは「嘆きの壁」が一望できる一等地で、その場所は政府の抽選で当たったという。
ヤエルはオランダ生まれのユダヤ人で、父親は古都ユトレヒトの香水商だった。1940年にナチス・ドイツがオランダを支配し、41年に父母とともにアムステルダム郊外のヴェステルボルク収容所に入れられた。その収容所は、「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクの家族も入れられた場所である。その収容所のユダヤ人は順次、アウシュビッツに移送された。
1944年9月、収容所からの最後の移送列車がアウシュビッツへ向けて出発した。出発前に、移送者の名簿が収容所で貼り出され、ヤエルと、彼の両親や兄の名前も出ていた。ヤエルと兄は移送後の危険な運命を察知して、前夜に2人で収容所から脱出した。兄が収容所の補修作業をさせられていたため、どこから逃げれば見つからないか知っていたという。ヤエルは、収容所を脱出した時の様子を語った。「午後9時、兄と2人でバラックを抜け出した。雨が降っていた。監視所から見えない鉄条網を切断して外に出た。闇の中を走った」
ヤエルと兄は、アムステルダムの知人のアパートに隠れて、1945年5月に連合軍によるオランダの解放を迎えた。両親はアウシュビッツに移送され、母は生き残ったが、父は収容所で死んだ。同じ移送名簿に、アンネ・フランクも載っていたことを後で知った。
ヤエルはオランダ解放の翌年46年にパレスチナに移住し、48年のイスラエル独立戦争に参加。右腕を負傷したが、その後、医学を学んで、外科医となった。「私は運が良かったと思う。ホロコーストを生き延び、戦争も生き延びた。神に感謝している」。
身分証明書のないキリスト教徒
エルサレムには、神を身近に感じようと世界中から信者が集まる。聖墳墓教会を終点として、キリストが十字架を背負って歩いた道はいま「ビア・ドロローサ(悲しみの道)」と呼ばれ、キリスト教のグループが十字架を持って巡礼する姿がある。この通りにあるアパートに住むマルガリータ・カマルは、2013年に話を聞いたとき80歳だった。旧市街に50年近く住みながら、身分証明書も、居住権も、社会保障もない。
家は旧市街に住むキリスト教徒だったが、1967年の第3次中東戦争でイスラエルが東エルサレムとヨルダン川西岸を占領した時には、ラマラのキリスト教系学校で英語教師をしていた。占領が始まると、イスラエルは東エルサレムのパレスチナ人に居住を認める身分証明書を出したが、67年以前にエルサレムに住んでいたことが条件で、西岸で働いていたマルガリータは身分証明書をとることができなかった。以後、身分証明書なしで旧市街に住んでいる。収入も、生活保護もないため、かつて自分が英語教師を務めていたキリスト教教会の関係で、旧市街にある修道院の支援を受けている。
マルガリータは、10年ほど前まで、エルサレムにあった金を加工するユダヤ人の工場で働いていた。しかし、工場がヨルダン川西岸にあるユダヤ人入植地に移ったため、仕事をやめた。「身分証明書がないから、西岸に行ったら戻ってくることができなくなる」。
毎朝、アパートを出て、キリストが十字架を背負って歩いた道を修道院に向かう。アパートはちょうどキリストが2度目に倒れたとされる場所の近くにある。「この道に立つと、イエス様を身近に感じる。どんなにつらいことがあっても、私もがんばろうと思う」。
2年後の2015年にエルサレム旧市街を訪れた時、偶然、ベンチで友人と話しているマルガリータと出会った。声をかけると、私のことを覚えていたようで、笑って「久しぶりだね。元気かい」と返事をした。いまも元気なら85歳だ。公的な書類の上では存在していない女性だが、エルサレムが彼女の町であることは誰も否定できない。聖地が彼女に生きる力を与えてくれているのだ。
「神の居場所」は「自分の居場所」である
旧市街に住む人々の話を聞いて、エルサレムとは何かと考える時、アルメニア人の歴史家ヒンティリアン(前出)の「ここは誰にとっても神の居場所であり、外から逃げてくるものを受け入れる場所だ」という言葉がよみがえる。
ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒にとって、エルサレムは「神の居場所」であり、それは「自分の居場所」ということである。エルサレムを聖地と考える3つの宗教の人びとは、自分が住んでいる国や場所で、迫害にあったり、苦難にあったりしたとき、エルサレムを「自分の場所」として思い描くのだろう。
今年、難民生活70年を迎えるパレスチナ人に話を聞くと、他人の国や他人の場所でいくら長く住んでも、安住ではないことが分かる。欧州で迫害を受けたユダヤ人が、パレスチナに安住できる国を建設しようとした聖地帰還運動のシオニズムが、パレスチナ問題という世紀をまたぐ難民問題を生み出したことは二重の悲劇である。
パレスチナ和平交渉団のメンバーでもあったアルメニア人のアガザリアン(前出)は、イスラエルの占領について、「私たちは、ユダヤ人にとってエルサレムが聖地であることを否定するつもりはない。しかし、イスラエルは聖地を自分たちだけで独占しようとしている」と批判した。独占や排除ではなく、共有と共存の道を実現するしか、聖地の平和も、そこに生きる人びとの平和もないだろう。
中東情勢は、中東の国々と中東に関わる国々の相互作用で生まれる。米国が加わり、ロシアが加わり、日本もまた中東情勢をつくる構成要素の一つである。中東には世界を映す舞台がある。中東情勢を読み解きながら、日本を含めた世界の動きを追っていく。
プロフィール
中東ジャーナリスト。元朝日新聞記者・中東特派員。中東報道で2002年ボーン・上田記念国際記者賞。退社後、フリーランスとして中東と日本半々の生活。著書に『「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)、『イラク零年』(朝日新聞社)、『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)など。共著に『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)。