中東から世界を見る視点 第10回

繰り返す中東危機とパレスチナ問題

川上泰徳

 

イスラエルのガザ攻撃が、アラブ人の「誇り」を傷つけた

「アラブの春」でエジプトの若者が掲げた標語は、「アダーラ(公正)」「フッリーヤ(自由)」「カラーマ(誇り、名誉)」だった。

 2011年2月11日、エジプトでムバラク大統領の辞任が発表された時、若者たちが占拠していたカイロのタハリール広場で私が聞いた群集の歓喜の叫びは、「イルファオ・ラーサク・フォ・インタ・マスリ(頭をあげよ。お前はエジプト人だ)」というものだった。この言葉は、エジプト人としての「名誉」の回復を意味する。

「アラブの春」は、アラブ世界では「サウラ・アラブ(アラブ革命)」と呼ばれ、時には「サウラ・カラーマ(名誉の革命)」とも呼ばれた。

 長期政権による腐敗によって経済的な格差が広がり、権力とのコネがなければ就職もビジネスも進まないという「不公正」が蔓延する社会で、若者たちが「公正」を叫んだのはよくわかる。「自由」も、強権体制の下で警察の監視と弾圧によって自由を束縛されていたことへの抗議である。「カラーマ(名誉)」は「人間の尊厳」を求める意味だが、アラブ人としての誇りを回復するという意味で、パレスチナ問題ともつながっていた。

「頭をあげよ」は、エジプト人には、1950~60年代にアラブ民族主義を主導したナセル大統領時代の言葉として記憶されており、欧米の支配に立ち向かうアラブ人としての誇りを意味する。

「アラブの春」で反乱を起こしたエジプト人の若者たちが「誇り」を失ったと感じたのは、2008年12月から09年1月にかけて3週間続いた、イスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの大規模空爆・侵攻の際、エジプトがガザの南の境界を開けず、イスラエルのガザ封鎖と攻撃に協力する形になったことだった。この時、ガザでは1200人以上のパレスチナ人が死亡。7割が民間人だった。

 エジプトの「アラブの春」を率いた若者指導者の1人、アフマド・ドーマから「イスラエルのガザ攻撃が続く2009年1月、ガザとエジプトの境界地下にある密輸トンネルを通って、支援物資を持ってガザに行き、連帯を表明した」という話を聞いたことがある。ドーマはガザから戻って軍に拘束され、軍事裁判にかけられて1年近く服役したという。

 イスラエルのガザ攻撃は、「アラブの春」の2年前である。その時、アラブ諸国の無力さをさらけ出したことに、アラブ人の民衆、特に若者たちは「恥」と受け止め、自国の指導者に対する強い不満を募らせた。だからこそ、「カラーマ(誇り)」が革命のスローガンとなったのである。

アラブ民族主義の高揚と挫折

 アラブ世界の変動とパレスチナ問題の関係を、歴史を遡って振り返ってみたい。

 1948年5月14日、国連パレスチナ分割決議を受諾したユダヤ人勢力は、イスラエルの独立を宣言し、決議を拒否したアラブ連盟5カ国(エジプト、シリア、イラク、ヨルダン、レバノン)は翌15日にイスラエルに宣戦布告した。第1次中東戦争である。

 戦争の結果、イスラエルは、1947年に国連総会が採択したパレスチナ分割決議でユダヤ人国家にあてられた区域よりも多い領土を獲得した。アラブ軍は国同士の連携もなく、装備も指揮系統も不十分で、実質的な敗北となった。

 1952年、エジプトではナセル中佐(のちの大統領)が率いる自由将校団が王制打倒の無血クーデター「52年革命」を起こした。革命後にナセルが著した『革命の哲学』という著書の冒頭には、王制打倒革命の源泉として、1948年の戦争でイスラエル軍に包囲されて塹壕にこもっている時に次のように考えたと書いてある。

「私たちはパレスチナで戦いながらも、私たちの夢はエジプトにあった。私たちの弾丸は目の前の塹壕に潜む敵に向けられていたが、私たちの心は遠いわが祖国の上へと飛んでいた。祖国は狼の犠牲になり、食い荒されるままになっていた。自由将校団の細胞は塹壕の中で集まり、状況を研究した。私たちは包囲されて、それがどうなるかも、いつ終わるかも分からなかった。しかし、私たちは祖国について、どうすれば祖国を救うことができるかを話し合った」

 戦争でのみじめな結果が、アラブ世界の体制変革に火をつけたのである。

 1956年、ナセルは、英国の管理下にあったスエズ運河の国有化宣言を行った。これに対して、英仏とイスラエルが協力してエジプトに対する軍事行動を起こし、第2次中東戦争(スエズ動乱)となる。

 この戦いでナセルは「アラブの英雄」となり、エジプトに始まるアラブ世界での王制打倒の動きはシリア、イラク、リビアへと広がった。

 こうしてアラブ世界を席捲したアラブ民族主義だったが、その挫折と凋落をもたらしたのもパレスチナ紛争だった。

 1967年の第3次中東戦争でイスラエルに大敗し、エジプトは支配していたシナイ半島全域を占領された。イスラエルは、エジプトが支配していたガザだけでなく、ヨルダンが支配していた東エルサレムとヨルダン川西岸も占領して現在に至る。イスラエルのパレスチナ占領は2017年に50年を迎えた。

 イスラム主義系のエジプト労働党の事務局長で、政党機関紙「シャーブ」編集長マグディ・フセイン氏は、高校生の時に熱烈なナセル主義者だったが、第3次中東戦争で大敗したことに衝撃を受け、「高校の教室の壁に飾られていたナセル大統領の肖像を降ろして、床にたたきつけた」という思い出を語ってくれた。それが、フセイン氏がイスラム主義者に変わっていく発端だったという。アラブ民族主義は挫折し、若者たちの間にイスラム復興の空気が広がる契機となったのだ。

イスラエル和平とイスラム復興

 1970年にナセルが急死すると、サダトが後継者となった。サダトは自身の権力を固めるために脱ナセル主義を進め、その方法として、ナセル時代に弾圧され、獄中にあった数千人の「ムスリム同胞団」の政治犯を釈放し、武装闘争の放棄を条件に、活動再開を認めた。同胞団以外のイスラム系組織も活動を活発化させ。ナセル主義者が運営を抑えていた各大学の学生委員会は、次々と、イスラム主義者が自治会選挙で勝利するようになった。

 さらに1973年の第4次中東戦争(十月戦争)で、サダト大統領は「ジハード(聖戦)」を唱え、民衆の宗教心に訴えた。エジプト軍は戦車部隊によるスエズ運河渡河作戦でシナイ半島のイスラエル軍に奇襲をかけ、緒戦を有利に進めた。イスラエル軍は反攻に転じたが、エジプトは「イスラエル不敗の神話」を崩した勝利を喧伝し、サダトは「渡河の英雄」と呼ばれた。

 しかし、サダトは1977年にいきなり方向転換する。電撃的にイスラエルを訪問し、エルサレムのイスラエル国会で演説したのだ。その後、米国の仲介による78年のキャンプデービッド合意を経て、79年、イスラエルと平和条約を締結した。当初、合意には中東和平の解決に向けた項目も入っていたが、アラブ諸国の強い反発によって、エジプトだけの単独和平となった。

 当時、私はカイロ大学に留学していたが、タハリール広場に「渡河の英雄から平和の英雄へ」という横断幕が張られていた。サダトはイスラエルのベギン首相とともにノーベル平和賞を受けるなど国際的には賞賛されたが、エジプトの民衆の間では、平和条約に対する批判や怒りは驚くほど強かった。

 アラブ民族主義の挫折によって始まったイスラム復興が具体的な形をとるのは、1979年のイラン・イスラム革命だった。また、79年には旧ソ連のアフガニスタン侵攻が始まり、ソ連軍と戦うためにアラブ世界からムジャヒディン(イスラム戦士)がアフガンに集まってジハード(聖戦)に身を投じた。これもまた、アラブ世界のイスラム復興の流れの中で起きた。アフガンでアラブ戦士を受け入れる拠点を提供したのが、90年代にアルカイダを率いたビンラディンである。

 一方、イスラム復興を利用しながらも、最後はイスラエルとの単独和平に転じてイスラム勢力を敵に回したサダト大統領は、1981年、十月戦争戦勝記念の軍事パレードで、イスラム過激派のジハード団に所属する将校の銃撃によって暗殺された。サダトの最期は、イスラム・パワーを象徴する出来事となった。

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 第9回
中東から世界を見る視点

中東情勢は、中東の国々と中東に関わる国々の相互作用で生まれる。米国が加わり、ロシアが加わり、日本もまた中東情勢をつくる構成要素の一つである。中東には世界を映す舞台がある。中東情勢を読み解きながら、日本を含めた世界の動きを追っていく。

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「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。元朝日新聞記者・中東特派員。中東報道で2002年ボーン・上田記念国際記者賞。退社後、フリーランスとして中東と日本半々の生活。著書に『「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)、『イラク零年』(朝日新聞社)、『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)など。共著に『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)。

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