中東から世界を見る視点 第10回

繰り返す中東危機とパレスチナ問題

川上泰徳

10年ごとに繰り返される「中東危機」のパターン

 1948年の第1次中東戦争によるパレスチナ問題の始まりがアラブ民族主義という激動の時代を生み出し、その後、1967年の第3次中東戦争がアラブ民族主義を挫折させ、イスラム復興の動きを生んだ。つまり、パレスチナ問題が中東の激動の根底にあるということだ。アラブ民族主義とイスラム主義というアラブ世界の2つの政治潮流の盛衰がパレスチナ問題と関わっていることが分かる。

 1973年の第4次中東戦争を最後に、アラブ世界がイスラエルを相手にする戦争は起きていない。しかし中東の危機は、次のように、ほぼ10年おきに繰り返されている。

▽1979年~80年 イラン革命(79年)、旧ソ連のアフガン侵攻(79年)、イラン・イラク戦争(80年)
▽1990年~91年 湾岸危機(90年)、湾岸戦争 (91年)
▽2001年~03年 9・11米同時多発テロ(2001年)、イラク戦争(03年)
▽2011年 「アラブの春」(2011年)、シリア内戦(同)

 10年ごとに大きな危機が繰り返しているのは偶然というしかないが、より重要なのは、似たようなパターンで情勢が動いていることだろう。各年代の前半は激動が続くが、7~8年経つと状況が沈静化するというパターンである。

1980~90年代の「危機」と「沈静化」

 80年代前半はイラン革命、イラン・イラク戦争、旧ソ連のアフガン侵攻に対するイスラム勢力の抗戦と激動の様相だったが、87年-88年になるとイラン・イラク戦争は終息に向かい、旧ソ連のアフガン撤退も始まった。

 湾岸危機・湾岸戦争の90年代前半は、エジプトやアルジェリアでイスラム過激派と治安部隊の抗争が激化した。イスラム側の主力は、旧ソ連軍の撤退によって母国に戻ったアフガン帰還者だと言われた。

 しかし、96年、97年になると、アルジェリアでもエジプトでも政府側が過激派を抑え込み、同時に体制の強権化が進んだ。エジプト政府は武装過激派を制圧するだけでなく、選挙参加を求める穏健派のムスリム同胞団幹部を大量逮捕し、軍事法廷で裁くという強硬手段をとった。また、90年代前半にエジプトで観光客襲撃事件を起こした過激派組織「イスラム集団」は次第に治安部隊に制圧され、97年夏、獄中の指導者たちが一方的な停戦を宣言。99年に武装闘争の放棄を決定し、「アラブの春」の後に政党として認められて選挙に参加した。

 90年代前半には、サウジアラビアでも保守派の宗教者から米軍駐留を批判する動きが出たが、政府が宗教者を逮捕し、民衆のデモを制圧するなど強権的対応をして不満を抑え込んだ。

 ビンラディンは湾岸戦争の後、米軍がサウジに駐留したことを批判し、対米ジハードに転じたためにサウジを追放され、スーダンに渡って、アルジェリア、エジプトなどのイスラム過激派の武装闘争を支援したとされる。しかし96年には、米国の圧力を受けていたスーダンからアフガニスタンに戻った。そして98年、エジプトのジハード団の指導者ザワヒリとともに「ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成した。

 これは、ザワヒリによる「近い敵(アラブ諸国の政権)との戦い」から「遠い敵(米国)との戦い」への路線転換と位置付けられているが、アラブ世界での武装闘争が力で封じ込められた結果を受けての方向転換という側面もあった。その流れの中で、2001年の9・11米同時多発テロが起こるのである。

「強権」と「反乱」が連鎖した2000年代

 2000年代前半はパレスチナの第2次インティファーダ(民衆蜂起)が始まり、イラク戦争が勃発したが、04年11月にPLOのアラファト議長が死亡した後、パレスチナはイスラエルに力で抑え込まれ、06年には双方の死者は目に見えて減少した。一方のイラク情勢は、06年に対米軍攻撃とシーア派×スンニ派の宗派抗争が最悪の状況となったものの、米軍は07年に一時的な増派で攻勢を強め、08年には米兵の死者は劇的に減少した。

 私が駐在していたエジプトでは、2010年11月に議会選挙があった。05年の議会選挙でムスリム同胞団が454議席中88議席をとり躍進したが、10年の選挙では警察の選挙妨害、投票妨害によって同胞団は選挙第1ラウンドで当選者なしとなり、選挙から撤退した。これによってムバラク政権は反対派を議会から排除した。その選挙から3か月後の11年2月にムバラク大統領が辞任することになるとは、誰も予想していなかった。

 繰り返される中東危機は、安定化に向かっている状況でいきなり新たな危機が噴き出すという唐突さを特徴としている。

 中東では、民衆の政治参加も権力のチェックもない強権体制が横行し、政治の腐敗や貧富の差などの社会問題を解決する仕組みがないためだろう。民衆の怒りが噴き出して危機が始まると、安定を回復するためにはさらに強権に頼るしかないという悪循環で、中東に関与する欧米もまた強権体制に依存してきた。

 中東に危機が起こると、中東の政権も欧米も力で抑え込もうとし、7~8年かけて抑え込むことに成功するが、しかし安定も束の間で、2~3年で次の危機が噴き出すというサイクルになっている。

 強権による危機の抑え込みに若者たちが反乱したのが、2011年の「アラブの春」だった。しかし、危機を力で抑え込むパターンは「アラブの春」の後も続いている。

 中東・北アフリカ地域の人口中央値は23歳。人口の半分以上を若者が占めている。就職するにもビジネスをするにも、権力者やその周辺とのつながりがものをいうコネ社会となっていることで「格差」が政治化し、若者の怒りが権力者に向かった。

「アラブの春」の前後に、エジプト、シリア、リビア、イラク、イエメン、チュニジアなどで、軒並み大統領の息子たちに対する権力の世襲が進み、親の威光を借りて新世代のエリート集団を作り出すような動きが出ていた。したがって、若者たちが自分の問題として体制への批判を強めたのは自然なことだった。しかし、チュニジアをのぞいては、若者たちの政治参加は強権によって排除された。シリアは内戦となり、エジプトは軍事クーデターによって民主化の動きが頓挫した。

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 第9回
中東から世界を見る視点

中東情勢は、中東の国々と中東に関わる国々の相互作用で生まれる。米国が加わり、ロシアが加わり、日本もまた中東情勢をつくる構成要素の一つである。中東には世界を映す舞台がある。中東情勢を読み解きながら、日本を含めた世界の動きを追っていく。

関連書籍

「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。元朝日新聞記者・中東特派員。中東報道で2002年ボーン・上田記念国際記者賞。退社後、フリーランスとして中東と日本半々の生活。著書に『「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)、『イラク零年』(朝日新聞社)、『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)など。共著に『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)。

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