中東から世界を見る視点 第1回

台頭するイランとシーア派

川上泰徳

フセイン体制崩壊で「シーア派パワー」が勃興する

 日本人にとってはイスラム自体なじみが薄い。スンニ派、シーア派といわれても理解がついていかないだろう。しかし、世界の総人口73億人の23%にあたる17億人がイスラム教徒であることを考えれば、イスラムを知らないで現在の世界を理解することは難しい。その1割を占めるシーア派が、中東で台風の目となっている。

 私にとってもシーア派は、長い間、遠い存在だった。学生時代にエジプトのカイロで1年学び、1994年から朝日新聞の特派員としてエジプトやエルサレムに駐在したが、エジプトもパレスチナもスンニ派世界の一部であり、イラク戦争まではシーア派を取材する機会は非常に限られていた。

 イラクには90年代からたびたび訪れたが、イラク戦争前のサダム・フセイン体制はアラブ社会主義を唱えるバース党という世俗的(非宗教的)支配であり、スンニ派、シーア派という宗派の違いが政治の表面に出てくることはなかった。スンニ派であれ、シーア派であれ、イスラムを強調するような考え方をとれば、すぐに秘密警察に目をつけられただろう。

 2003年のイラク戦争でフセイン体制が崩壊した途端、イラクで人口の6割を占めるシーア派の存在が急激に表面化した。「シーア派パワー」がどっとあふれてきたという印象だった。バグダッドが陥落した後、バグダッド郊外にあるシーア派地区のサドル・シティによく取材に行った。特に金曜日礼拝を取材に行くと、見たこともないような群衆がシーア派モスクに集まり、モスクの前の広大な空き地を埋めて一斉に礼拝をした。

サドル・シティのシーア派モスクで行われた金曜日礼拝

 フセイン体制下では、シーア派民衆が新しいモスクを建設したり、古いモスクを修復したり、拡張したりすることは厳しく制限されていた。シーア派民衆がモスクからはみ出して大規模な金曜日礼拝をすることも認められていなかった。見渡す限り人で埋まったサドル・シティの礼拝は、フセイン体制のくびきを解かれたシーア派が、数の力を誇示しているかのようだった。

 バグダッドが陥落した直後は、政府やバース党の事務所への略奪が横行した。シーア派のモスクの説教で「略奪はイスラムに反する。盗品を戻せ」という説教があった。すると、モスクに併設した倉庫は、人々が運んで来た略奪品であふれかえった。文字通り無政府状態が続いていたものの、10日、2週間とたつうちに治安が回復してきた。フセイン体制の下では幾重にも張り巡らされた秘密警察が治安と秩序を守っていたが、体制が崩壊した後、それに変わって出てきたのは部族と宗教(イスラム)である。

 実際にイラク戦争後のイラクで取材をした経験から考えると、スンニ派とシーア派では、部族と宗教者の力関係が異なっていた。スンニ派地域では部族の結束や部族長の権威が強く、ウラマーと呼ばれる宗教者は部族長を補助する形だった。一方、シーア派の宗教者は「大アヤトラ」を頂点とするピラミッド的なヒエラルキーを持ち、イラク中部のナジャフというシーア派の聖地に宗教権威がある。こちらは、部族が宗教者体制を支えているような構図だった。

 サドル・シティはイラク戦争前まで「サダム・シティ」と呼ばれていた。300万人以上の人口を抱える貧しいシーア派地区だが、まさにシーア・パワーを象徴する場所である。「サドル」は、フセイン体制下で暗殺された聖地ナジャフの大アヤトラ、サーディク・サドルに由来する。単に名前が変わっただけではない。殉教者サーディクの息子としてイラク戦争後に風雲児のように現れた若い宗教者ムクタダ・サドルが率いる民兵組織「マフディ軍」の最大の拠点ともなった。

 ムクタダ・サドルは米軍占領に対抗して反米デモを率いた。マフディ軍はバグダッド陥落から約1年後の2004年4月、サドル・シティでパトロール中の米軍を襲撃し、8人の米兵を殺害、50人以上の負傷者を出すなど、米軍への対抗姿勢を強めた。当時40歳だったムクタダ・サドルが率いる政治勢力は「サドル派」と呼ばれ、フセイン時代から反体制活動をしてきたダワ党やイスラム最高評議会と共に、政治勢力としての「シーア派パワー」を形成した。

2004年4月にバグダッドで開かれた、米軍占領に反対する大集会

 イラク戦争でバグダッドが陥落した2003年4月9日から約2週後に、バグダッドの南100キロのシーア派聖地カルバラで行われた宗教行事「アルバイン」を取材したことがある。シーア派はイスラムの預言者ムハンマドの甥で女婿の第4代カリフ、アリの家系を正統な後継者とみなして、主流派のスンニ派に対抗した。カルバラは、アリの息子フセインがスンニ派との争いの中で戦死した町である。シーア派は「殉教者」フセインが殺害された日を「アシューラ」、殺害から40日目を「アルバイン」とする。毎年、その日はフセインの殉教を悼んで鎖で体を打ったり、刃物で傷つけたりという熱狂的な行列を繰り出すのだ。

 私はアルバインの前日にカルバラに入った。途中、バグダッドからカルバラを目指して歩くシーア派の人々の列が途切れることはなかった。沿道の町、村ではカルバラに向かう人々のために水や食料を用意していた。フセイン体制下のイラクでは「アシューラ」や「アルバイン」のような宗教行事は禁止され、カルバラ巡礼もできなかった。

 カルバラでは各地から集まった集団が町や村ごとにまとまって、それぞれ工夫を凝らして嘆きや悲しみを表現していた。フセイン体制は倒れたばかりで、イラクがどのように動くかまったく分からない状況だったが、シーア派の人々の熱狂を見て、新しい時代の到来を実感したものである。

 米国は「強権からの解放」「イラクの民主化」を掲げてイラク戦争を始めた。しかし、その結果は、イランの支援を受けたシーア派宗教勢力が比例代表制選挙で統一名簿をつくって半数の議席を占め、政権を主導することになった。米国にとっては、長年敵視してきたイランが中東で影響力を強める手助けをするという、皮肉な結果となった。

 シーア派がイラクの人口の6割を占めるのだから、選挙でシーア派が勝つのが当然と思うかもしれない。しかし、政治と人口統計とは常にリンクしているわけではない。シーア派の間でも、サドル派とイスラム最高評議会が軍事的に衝突することがあった。それでも、イラク戦争後の2005年に憲法制定議会選挙でシーア派宗教勢力が協力したのは、イランの存在と、ナジャフの意向があったからだ。イランは、過去にサドル派とイスラム最高評議会の和解を仲介したことがあった。さらに、ナジャフの大アヤトラであるシスターニは、シーア派各派が共同歩調をとることを宗教見解として掲げたのである。

 シーア派民衆は、シーア派の候補者統一リストを「シスターニ師のリスト」と呼んで、投票場に詰めかけた。スンニ派にはイスラム党というイスラム主義政党があったが、部族勢力もいれば世俗派のリベラル派もいて分裂し、さらに選挙をボイコットする動きが広がった。スンニ派は政治的求心力を欠いていた。

 イラク戦争後、ヨルダンのアブドラ国王が、イランの勢力伸長について「シーア派三日月地帯」という言葉で警告した。その言葉は、当時、政治的プロパガンダとしか受け取られなかった。しかし、イランの後ろ盾でイラクのシーア派が選挙に勝利して政権を主導し、さらにシリア内戦が始まると、イラン、レバノン、イラクのシーア派民兵が支援してアサド政権が存続する。このような状況になって、「シーア派三日月地帯」は実体を持つことになった。

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第2回  
中東から世界を見る視点

中東情勢は、中東の国々と中東に関わる国々の相互作用で生まれる。米国が加わり、ロシアが加わり、日本もまた中東情勢をつくる構成要素の一つである。中東には世界を映す舞台がある。中東情勢を読み解きながら、日本を含めた世界の動きを追っていく。

関連書籍

「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。元朝日新聞記者・中東特派員。中東報道で2002年ボーン・上田記念国際記者賞。退社後、フリーランスとして中東と日本半々の生活。著書に『「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)、『イラク零年』(朝日新聞社)、『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)など。共著に『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)。

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