中東から世界を見る視点 第1回

台頭するイランとシーア派

川上泰徳

シーア派の聖地・ナジャフにて

 イラク戦争が一段落した2010年4月、イラクの主となったシーア派について知るために、私は中部のシーア派聖地ナジャフを訪ねた。ナジャフにはアリ廟がある。前述のように、シーア派はアリとその家系をムハンマドの正統な後継者と考える「アリの党派」である。それだけに、ナジャフはシーア派教徒にとって特別の町なのだ。

ナジャフの旧市街。正面のドームがアリ廟

 ナジャフには2008年に国際空港が開港し、イラン、バーレーン、アラブ首長国連邦(UAE)、クウェート、レバノンから定期便が就航していた。私はバーレーンの首都マナマからナジャフ空港に降り立った。飛行機が空港に着陸した瞬間、機内で「ムハンマドとその家族に祈りを捧げる」というシーア派流の掛け声が上がり、その声に機内全体が唱和した。スンニ派世界では経験がないことで、一瞬、何が起こったのかと、私は思わず機内を見回した。それが私にとっての「ナジャフ体験」の始まりだった。

 ナジャフは学問の町だった。有名なモスクに併設して、ハウザと呼ばれる学院がいくつもあった。シスター二のような大アヤトラはもちろん、かつて大アヤトラを輩出したナジャフの名家もハウザを持ち、学生を抱えていた。アラブ世界のシーア派は、イラク以外ではレバノン、サウジアラビア東部、クウェート、バーレーン、イエメンなどにコミュニティがある。さらに、イランはもちろん、アフガニスタンやインドにも大きなコミュニティがある。世界各地のシーア派コミュニティから、ナジャフのハウザに学生たちが学びに来ていた。

 私が訪ねた学院では、60代のアヤトラが教授として100人以上の学生に教えていた。教授は18歳でハウザに入り、初級課程を5年、上級課程を15年の計20年学び、やっと信者に法解釈を示すことができるムジュタヒドとして認められたという。教授は「学生のうち学問が成就するのは10人に1人」と語った。

ハウザで教授を囲んで学ぶ学生たち

 1970年代には、ナジャフに5000人以上の学生が国内外から集まっていたとされるが、79年にイランでシーア派のイスラム革命が起き、翌80年にイラクのフセイン体制がイランとの戦争を初めて、ナジャフの宗教勢力への弾圧を強めた。そのため、多くの宗教者がクウェートやイランに逃げた。ナジャフは80年代、90年代と抑圧されていたものの、イラク戦争後にシーア派が台頭し、ナジャフ復興が起き、留学生も増えている。

 ナジャフの学院には、学生が住む小さな部屋が付属している。ヒズボラ党首のナスラッラが、1979年まで学んでいたという学院もあり、ナスラッラが使った部屋が残っていた。ナスラッラはレバノンに戻った後、82年のイスラエルによるレバノン侵攻の後に生まれたヒズボラに参加し、指導者になった。

 私が訪ねた時、ナジャフにはシスターニら4人の大アヤトラがいた。そのうち、地元のナジャフ出身者は1人だけだった。シスターニはイラン、あとの2人はアフガニスタンとパキスタン出身で、コーランとイスラム学の言葉であるアラビア語を母語とするアラブ人ですらなかった。ナジャフに来た学生は、国籍や出身地に関係なく、学問で認められれば、宗教界のトップにまで上り詰めることができるということである。

 大アヤトラは学問の世界の権威というだけでなく、豊富な資金を持つ。資金源となるのは、信者が払う「フムス(5分の1)」と呼ばれる宗教税である。フムスは収入の5分の1(20%)を指すが、信者は自分が信奉する大アヤトラに払う。家や土地、車などを買った時に、その代金の20%を支払うのだ。大アヤトラはハウザを開き、信者のための慈善活動や文化活動を幅広く行っている。各地に自分の代理人をおいて、宗教者として人々の相談を受け、様々な社会活動を行って人々と結びつき、フムスを徴収する。

 シスターニの事務所の前には、フムスを払おうとする信者が列をなしていた。フムスの支払いは信者の義務であり、強制されるわけではないが、払わなければ天国に行くことはできない。国の税金とは異なり、ごまかして報いを受けるのは自身である。ある信者に話を聞くと、大アヤトラの事務所でフムスを算定してもらい、事務所に払うのは10%で、残りの10%は「自分で貧しい家族に与えなさい」と教えられたという。もちろん、それも天国に行くために実行するという。

 エジプトやサウジアラビアなどほとんどのスンニ派国家では、宗教者は大学でイスラム法など学を修めて、政府の宗教省に属し、政府から給料を受ける公務員である。中には大学院で研究を続けて博士号をとり、自身で宗教関連の研究書や著作を発表するなどして宗教者として社会的に評価される傑出した宗教者もいるが、数は少ない。一方、シーア派の宗教者は政府や権力者から独立したヒエラルキーと資金源を持ち、その分、独自性が強いといえよう。

 ナジャフのもう一つの顔は、墓である。アリ廟があるというだけでなく、市の北と東の方向に、30平方キロの広大な墓地「ワディ・サラーム(平和の谷)」が中心部から延びている。シーア派の人々は、ナジャフに埋葬すれば、アリが天国にいくことを神様に取りなしてくれると信じている。墓地は1000年以上にわたって広がり、500万基あるとされる。

広大な墓地「ワディ・サラーム(平和の谷)」

 墓地には、木製の棺を屋根に積んだ車が次々と到着する。入り口でイスラム式の洗浄を受けた後、アリ廟で宗教者の礼拝を受け、人々が棺を担いで墓地で埋葬される。ある埋葬人に聞くと、イラク戦争後の2006年にスンニ派とシーア派の宗教抗争が激化した時には、月に500体を葬ったという。スンニ派との抗争がそれだけ激しかったということであるが、ただし、シーア派が一方的に被害者だったわけではない。当時、「イラク・イスラム国」が無差別にシーア派民衆を爆弾テロで殺戮したのに対して、スンニ派地域を攻撃したシーア派民兵の残酷さも人権団体などによって報告されていた。

 ナジャフに行って分かったのは、激しい宗派抗争の間にも、イラク全土のシーア派地区から遺体が運ばれてきて、ここが追悼と埋葬の場になっていたというシーア派の一体性である。さらに国際空港が整備されて、イラク国内のシーア派はもちろん、国外のシーア派の人々も棺をナジャフに運んで埋葬するようになったという。生者だけでなく、死者にとっても、ナジャフは国境を超えた都市になっている。

 ナジャフについて詳しく書いたのは、国という枠組みを超えたシーア派の存在を示すためである。レバノンのシーア派ヒズボラ党首ナスラッラが1970年代にナジャフで学んだように、かつてはイランのコムよりも、ナジャフがシーア派教学の中心だった。人口の多数がシーア派のバーレーンや、サウジアラビアのペルシャ湾岸にあるシーア派都市カティーフなどでも、60代、70代のシーア派宗教者の中には、若いころナジャフで学んだ人物が多い。イラン出身のナジャフの大アヤトラ、シスターニはまずイランの聖地コムで学んだ後、ナジャフに移った。

 イラクのサダム・フセイン体制は、シーア派本拠のナジャフを抑え込むことで、インド、アフガニスタン、イラン、湾岸アラブ諸国からレバノンまで延びるシーア派ネットワークを分断していた。その体制が崩壊し、イラクにシーア派政権が生まれたことで、改めてネットワークが動き出した。それが「レバノンのシーア派の若者が、ヒズボラ戦士としてシリアにジハードに行く」という状況を生み出しているのだ。

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第2回  
中東から世界を見る視点

中東情勢は、中東の国々と中東に関わる国々の相互作用で生まれる。米国が加わり、ロシアが加わり、日本もまた中東情勢をつくる構成要素の一つである。中東には世界を映す舞台がある。中東情勢を読み解きながら、日本を含めた世界の動きを追っていく。

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「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。元朝日新聞記者・中東特派員。中東報道で2002年ボーン・上田記念国際記者賞。退社後、フリーランスとして中東と日本半々の生活。著書に『「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)、『イラク零年』(朝日新聞社)、『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)など。共著に『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)。

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