(そして、三浦は記憶の底へ
私たち家族は一九六六年にアメリカに戻りましたが、私はその後も夏休みなどを利用して時々日本に戻って来ており、七二年秋から一年間は東京・三田の慶應義塾大学国際センターへの留学で、日本に長期滞在することになりました。ホーラス・ブリストルは既に日本から去り、三崎ハウスも別の人に売られて、持ち主の替わった家がありましたが、シーモア・ジェノーとリンダは、まだここに別荘を所有していました。
シーモア・ジェノーは日本で技術系のコンサルタント会社を創設し、お金持ちでもあったので、ヨットを所有していました。彼は三崎ハウスからすぐ近くの油壺(あぶらつぼ)にある「シーボニア」というヨットハーバーに、船を停泊させていました。
シーモア・ジェノーは時々お客を招待し、ヨットで相模湾に繰り出して楽しんでいました。しかし、彼自身は海のことをほとんど知らず、ヨットの操作ができませんでした。一方、私は海好きの父に連れられ、小さなヨットでバハマ諸島に出かけ、一夏を過ごしていたりしたので、ヨットには慣れていました。クルーとして適任だった私は、シーモア・ジェノーにアルバイトで雇われて、シーボニアで彼のお客さんと楽しく海の時間を過ごしました。
ただ、私が東京で留学生活を送っていたころは、三崎ハウスにとっては黄昏の時期でした。私はたまにリンダ邸へ遊びに出かけ、暖炉脇でジンを片手に昔話を聞かせてもらっていましたが、慶應義塾に留学する前の年の夏に祖谷を見つけてからは、祖谷にばかり行くようになっていました。
祖谷の「篪庵」を、トム・マクヴェイから借りたお金で購入したのは、七三年の夏です。秋に大学へ戻った後は三浦に行くこともなく、その数年後に、久しぶりに行ってみようと思った時には、トム・マクヴェイとシーモア・ジェノー、リンダたちもすでに家を売り払い、帰国した後でした。懐かしい思い出がいっぱいの三崎ですが、そのようなことで、その後に再訪することはなく、はるか昔の思い出として私の記憶の底に沈んでいたのです。
しかし「ニッポン巡礼」を書くことになり、自分の人生についても振り返るようになったことで、にわかに三浦への郷愁が募りました。考えてみれば、ミノルタ・オートコードを手に、あちこちを歩き回っていたことが、私の巡礼の始まりです。ミノルタ・オートコードは、その後NikonやCanon、最近ではiPhoneに姿を変えましたが、私は現在でも世界各地を歩き回り、シャッターを切りまくっています。良いことなのか悪いことなのか分かりませんが、あれから五十年以上経った今も、私は進歩することなく、同じことを繰り返しているのです。
私自身、歳を重ねるうちに分かってきたことですが、日本を含めたアジアの国々は、欧米、特にヨーロッパとは異なり、町の景色は短期間で目まぐるしく変化し、次に行った時にはガラリと姿を変えていることが、よく起こります。そうなると、残るものは写真だけです。こうやって、私は徐々に写真というものの重要な役割について、思い知らされるようになっていきました。
そのような経験があるので、どこか美しい浜辺を訪れたとしても、「きれいな海岸だな」と心安らぐのではなく、「いつ護岸工事で破壊されてしまうのだろうか」と、先を憂う気持ちの方が強くなってしまいます。古い町を訪れた時も同じです。「いいところだなあ」と感じ入るより前に、「次に来る時にはどれくらい崩れているのだろう」と、これから起こることを予感して、うれしさよりも悲しさを覚えてしまうのです。巡礼者として皮肉なことですが、そんな私が唯一できることが、今、目の間にある風景を写真に留めることなのです。
(後編へ続く)
構成・清野由美 撮影・大島淳之
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。