【短期連載】燃えるノートルダム 貴婦人の二つの顔 第1回

1. なんて年にパリに来たんだろう

須藤輝彦

文化が財源となる観光地で

 その日から、新聞やネットでノートルダム火災についてのリアクションを目にすると、わたしはほぼ必ずと言っていいほど違和感を覚えた。「悲劇」。フランスの新聞社を筆頭に、世界のマスメディアが報道したニュースの基調となったのはこの言葉だ。「Notre-Dame, notre drame ノートルダム、ノートル・ドラム[我々の悲劇]」──16日付リベラシオン紙の見出しはこうなっている。17日付ルモンド紙社説は、「心臓を突かれたフランス」と題し、パリの精神的支柱だった大聖堂の損傷を嘆いた。曰く大聖堂は、威厳をたたえた石の船のようにセーヌ川の二つの腕に抱かれ、人類の歴史や永遠の神と対話しているようだった。荒々しく貪婪な炎すら、その対話を終わらせることはできない。それでも、パリ市民は惨劇に呆然とし、悲しみは大波のように世界中に広がった。同日付の独誌シュピーゲルは、「欧州の没落を象徴するようだった」と評している。

 日本のマスメディアもフランスのマスメディアも概ね、この火災を痛ましい悲劇として扱っていた。当然のことだ。けれども、それはわたしが「現場」で受けた印象とは異なる。たしかにあの日、わたしは涙する人、跪いて讃美歌や「アヴェ・マリア」──ノートル・ダム、つまり「我らが貴婦人」、聖母マリアに捧げた歌だ──を歌う人々を見た。しかしそのような人はごく一部である。大多数は燃えるノートルダムをただ「眺めていた」と言っていい。驚かれるかもしれないが、ビール瓶片手に見物していた若者も多い。そこには「悲劇」の一言では表しきれないような、雑多で、どこかクールな反応があった。わたしは「これがパリなのか」と奇妙な感慨を覚えた。

 あの夜、わたしが感じた「パリ」とは、ジャーナリストや外国人も含むフランス系知識人にとってのパリではおそらくない。ノートルダムを信仰の拠り所としているような信者たちにとってのパリでもない。それはこの街が表象する伝統や文化と、繋がっていると同時に断ち切られた、そんなパリである。言葉を換えれば、文化がそのまま財源となるような観光地としての、それも世界一の観光地としてのパリである。それはまた、エリートと「庶民」との深い断絶を抱える都市としてのパリでもある。

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第2回  
【短期連載】燃えるノートルダム 貴婦人の二つの顔

フランスの、ヨーロッパの歴史を象徴するノートルダム大聖堂を襲った火災。またたく間に世界中へ伝わった痛ましい悲劇の報せが、思わぬ波紋を呼んでいる。「エリート」と「庶民」、そこには、パリのみならず世界が抱える深い断絶が浮かび上がっていた……。パリに学ぶ若き中欧文学研究者が捉えた「ノートルダムが燃えた日」とは。

プロフィール

須藤輝彦

1988年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。ミラン・クンデラを中心に、チェコと中東欧の文学を研究中。論文「亡命期のクンデラと世界文学」(『れにくさ』第8号、2018年)、「偶然性と運命」(『スラブ学論集』第20号、2017年)、エッセー風短篇「中二階の風景」(『シンフォニカ』第2号、2016年)、留学記「中空プラハ」(http://midair-prague.blogspot.com)など。

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1. なんて年にパリに来たんだろう