一週間 ――原発避難の記録 第4回

石澤修英さん(浪江町権現堂)

三月一二日

 次の日は、俺の妹が来て、「原発がやばいらしいよ」って。どっからその情報仕入れたのか、地元の友だちとか旦那とか、そういうのから聞いたみたいで。で、周りの人たちも一斉に津島の方に行ったんですよ。
 で、私は、「全然余裕だろう」って言って、避難しなかった。でも、少ししてから結局家族でいったん逃げようと思って出たんだけど、一二日午前中は車が全然動かなかったの。妹たちはもう避難していた。どこに避難したのかは聞いてないんだけど。
 で、車が動かないから家に戻っていたんだけど、娘が騒いだの。「やばいよ、やばいよ」って。娘がちょっとパニクっちゃって。情報なにもなくって。車のラジオも聴かなかったな。で、夕方になってから、津島に避難したの。避難指示の防災無線とかもなかった。
 俺の隣の、俺と同じ年の息子が、ずっと避難しないで、家にいたよ。四月二二日だったか、警戒区域になって入っちゃいけなくなったの。その日も過ぎてもいたね。水とか電気とかないのによく大丈夫だな……って思って。でも、サンプラザとか、一部には電気が通っているところがあったの。で、販売機とかも普通に動いていたの。だから、水とかそういうのは買えたんだろうね。
 一二日は、とりあえず家にあるものを食べて。そのくらいの食料はあったんだよね。ただ、ガソリンがなくて困ったのよ。三分の一くらいしか入っていなくて。スタンドはやってねえし、夕方に避難しようとしたときには、もうほとんど周りに人がいなかった。周りはみんな避難して誰もいなかったんだよね。
 俺は何も知らなかった。「津島に行け」という指示は俺らは聞いてない。知っている人と知らない人がいるんだよね。防災無線も何もないし、電気も通ってないし、誰か来て伝えてもらったわけでもないし。たぶん町内にいた人たちはわかんなかったんじゃないか。
 その頃には道路もすいていた。もうがらがら。渋滞があったなんて嘘みたい。でも、六号線は通れなかったよね。そこそこで陥没していたし、ひび割れしてたし。一応、スタンドまでは行ったけど。六号線のいろんなスタンド。でも、どこもやってないから「あー、もうガソリンは無理だな」って。一一四号線(国道一一四号線)と交差するガソリンスタンドとか、全部無理だった。
 もうガソリン入れられるような感じではなくって、誰もいなかった。で、とりあえず津島に行ったんですよ。娘の車と俺の車の二台で。で、娘の車は比較的ガソリン入っていたの、軽自動車なんだけど。俺のは普通乗用車。
 実はそんときの話だけど、うちの家の前に親戚が住んでいるのね。で、車検の切れた乗用車が投げっぱなしになっていて、それガソリンほぼ満タンに入っているっていうの。で、「そこから抜いていいから逃げて来て」って連絡が入って。ところが、そう簡単に抜けるもんじゃないよね。そしたらレクチャー受けて、タンク外せば大丈夫だって。タンクは車の下についてるの。そのタンク外して。外しちゃえば、ポンプで入れられる。あれね、給油口からはガソリン、絶対抜けないんだよね。
 で、津島は電気通っていたんだよね。そこで初めてテレビのニュースとか観て。知り合いの家にとりあえず行って。もう夜になっていたね。そこに一日か二日か泊まらせてもらったんだよな。
 原発が爆発しているのを見ても、なんつうんだろ、緊迫感はなかったね。要は「津島にいれば安心だ」くらいの。距離が離れているから、大丈夫だって。でも、そう思うよね、普通の人は、たぶん。
 津島では三食、食べられたね。あとは、ちょっとご飯をいただいて、津島の体育館とかに避難している人たちに持って行ったりして。軽くボランティアしましたね。炊き出しとか、「やってもいい?」って聞いたら、「いいよ、いいよ」って言うから、やらしてもらって。だって、みんな苦しんでいるしね。一応、スーパーとかいろいろあるんだけど、食べ物とか全部いっさいなくなっていたからね。娘と妻と一緒に、手伝ってもらって炊き出ししていた。やっぱり知り合いがいっぱいいるじゃん。そうすると、そいつらが苦しんでいたらやっぱりさ、そりゃあできることはしたいなって。炊き出しは二日くらいやったの。
 俺なんか、たばこ吸いたくて、たばこ買いたかったんだけど、たばこも全部なくなっちゃって。酒なんか全然ないよ。酒、たばこ、いっさいなかった。ほんと全部売れていて。
 そのときは長い間帰れないなんて思わなかったな。そういうことを考える余裕もなかった。俺なんか爆発しても、まあ一週間、二週間くらいで帰れるだろうって、それくらいの気持ちだったから。
 でも、みんなから、「津島もやばいらしいから逃げなきゃダメだよ」っていう話きいて。その情報ってのは、体育館とかそういうところで人から聞いただけ。みんなもうここからも出る、って言うんで。ちょうど今度は兄貴と連絡が取れて、兄貴が「東京行く」って。「おふくろ連れて行く」って言うから。おふくろは兄貴と避難しちゃったんだ。兄貴の嫁が、もともと東京の人で、「おばさんの家に行く」って。

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

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