一週間 ――原発避難の記録 第4回

石澤修英さん(浪江町権現堂)

三月一四日

次の日かな、そのおばさんのところから「こっちに来い」って話をされて。でも俺は「まあ別に、行くこともねえか」って、なんか全然焦ってなくて。でも娘が今度は「危ない」っていう噂を聞いて「やばいよ、やばいよ」って心配しはじめて。じゃあ、東京行くかっていうことで、そのおばさんのところに向かったの。
 津島を出たのが、昼過ぎとかそれくらいじゃないかな、わかんないけど。で、東京には夜の一〇時とか、それくらい。車一台。軽自動車は、津島に置いて、大きい方で行って、ガソリンはぎりぎりだった。東京の杉並区に着いたときはもうカラカラの状態。で、その日泊まって、ご飯ご馳走になって。

 

三月一五日

次の日、今度は俺がおふくろ連れて、千葉の船橋の親戚筋のところに向かったの。兄貴のかみさんのところにおふくろが世話になり続けるのは悪いから、自分の直系の親戚だから、おふくろも気兼ねなく、いられるからね。俺の従弟なんだけど、親同士が兄弟で、仲がいい。船橋には家族全員、おふくろと俺と家内と息子と娘で、三月の一五から二八日までお世話になりました。
 もうやることが毎日いっぱいあってわかんないんだよね。浪江にも一週間に一遍、立ち入りしていたかんね。ガソリンを、なんとか並んで買ったりして。
 外犬が一匹いたから、リード外して、避難してからも、そのまま放し飼いで。一週間に一遍必ず行って、犬のエサと、タンクに入れた水もって。実は犬五匹いたの。で、外犬が一匹で、その犬だけ置いてきちゃったの。外犬は、必ず家にいたから。どこにも行かないで家にいた。ただ、かわいそうでさ。帰るときもずっと車の後ろ追いかけてくんだよ。本当にかわいそうで。うちの家内なんて、行くとわんわん泣いて。で、そんな生活をずっとしていて。
 室内犬二匹は、すぐ郡山の知り合いに預かってもらって。で、もう二匹は連れて歩いていた。船橋にも連れて行った。
 そのころは立ち入りの規制とかはまだない。で、誰か警察かな、立っていたけど、入んなきゃいけない理由があるんで、そうすると自己責任で、って言われて、向こうも強制力はないから。
 ある日新聞を見たら、避難者をURで受け入れてくれるって。「じゃあ、申し込みに行こう」って、船橋のURに行ったら、「どこの団地にする」って話になって。まず浪江に通って犬にエサをあげなきゃいけないって頭があるから、そうすると六号(国道)は原発があるから通行はダメだから、そしたら四号(国道)か東北道の近くで、ってなって、「どこかそういうところありますか」って聞いたら、埼玉の「春日部」ってことになって。「ここだったら四号も東北道に乗るのもアクセスいいですよ」って言われて、「じゃあここにしよう」って。犬のために春日部になったの。エサを届けるために。いつも、エサを届けるルートは四号線で二本松あたりまで行って、津島通って、浪江に入る感じ。東北道も、通らせてくれるって話になってから、一回か二回通った。しばらくは緊急車両のみで入らしてくれなかったからね。

避難が長期化するなんて思っていなかった。数カ月で戻るんだろうって。団地借りても、数カ月くらいで戻れるって頭で。でもそれくらいだったんじゃない。そんな何年も戻れないなんてことは全然考えていなかった。
 いずれは、かみさんと浪江に戻ろうかと思うよ。うちのかみさんも戻りたいと言っているから。結局、避難して、どこにいても、心が洗われることがないというか、そこにいても満足することはないんだろうなって思う。昔は、町おこしでバンドやったり、音楽イベントやったりしてね。そんなコミュニティとかいっぱいあったからね。あのころは、楽しかったよ。
 私の場合はね、一番失いたくなかったのは、そういった地域のコミュニティだよね。だからかな、避難している人のちょっとでも癒しになればなとか。なんか問題があれば、なにか解決の方法があればなとか。そういう想いで、今も避難生活の支援活動をやっているんだよね。

(第4回 了)

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 一週間――原発避難の記録 第3回
第5回  
一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

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