2011年3月当時、酪農を営んでいた鵜沼久江さん。東京電力福島第一原子力発電所から3キロ圏内の自宅にて被災。その後、浪江町津島地区へ避難したあと、双葉町の役場と一緒に埼玉県へと避難。現在も避難生活を送る。震災当時同居していた夫は避難生活中に他界。
インタビュー/構成 吉田千亜
三月一一日
地震があったときはうちにいたの。娘は出かけていて、娘の旦那は会社に行っていて、孫は小学校に行っていたでしょ。だから、孫を迎えに行ったの。隣の家は、うちの孫と同じ学校に二人通っていたから、その二人も乗せて帰って来たの。あの時は、電話が全然通じない。私の電話ではつながらないから、孫が、「私の電話で掛けてみるね」って。「早くそうしなさい」って、一生けん命掛けてもつながらない。娘も、孫が心配で、すぐに小学校に向かっていたの。
自宅に戻って、夜になってから、「原発から三キロ圏内から出なさい」っていう大熊町の防災無線を聞いたんじゃないかな。双葉の防災無線は聞いてない。防災無線は、全然役に立たなかったよ。
隣の家は、お父さんが入院していて、子ども五人とお母さんがいたんだよ。車がなくて、歩くしか方法がないの。一番ちっちゃい子が幼稚園、年少か年中くらい。「避難しなさい」って言われて、「お隣のあの子たち、お父さん、どうすんだろうね、誰も連れてってくれない、歩くしかないんじゃない」って言って、心配していたの。
それで、お隣に行って、「皆さん避難しているみたいだから、車に乗せてくから」って言ったんだよ。そしたら、「避難しません」って言われて。私、軽乗用車に乗っていって、「ふざけてんじゃない」って騒いでさ。「早く車に乗れー」って言ったら子どもたち、ばーっと乗ったのね、子ども五人だから、「なんでもいいから抱いてでもなんでも乗んなさい」って言って。お母さんは、体格のいい人だから乗れなかったのよ。ほんで「うちのお父さん下にいるから早く行ってトラックに乗れー」って叫んで、そうやって山田地区多目的集会所に連れて行ったの。そんでなきゃもう、私、避難するってことは考えなかったもん。お隣のその家族がいたから集会所に行っただけ。
集会所に行ってみたら、周りの人がみんな避難してきていて、私ら、それを知らないの。役場の人が、「何やっていたんだ! 早く避難しなくちゃ」って。
でも、そのお隣の家の子たちを避難所に置いたら、私らは家に戻ったの。集会所では炊き出ししてくれていたけど、でも私らの分は無かった。だから、お父さんと二人で、牛のために戻ったの。で、一晩中、ずーっと続く余震に揺られながら、車の中にいたの。余震が怖くて、家にも入れないし。
夜、隣の大熊の人は、何人かまだ家にいたよ。電気ついていたんだよ。電気ついていた家に行って、「あんた、逃げなきゃ大変だわ」って言ってみたら、「余震が怖くて、ここなら安全だから」って言って。
私らは、避難しないって決めていたから。避難しない、じゃなくて、避難出来ない。牛がいるからね。トラックにいて、牛をずっと見てっからね。牛が逃げたら回収するのが大変なんだもん。逃げることとかしょっちゅうだよ。田んぼもあるし畑もあるし、よそのうち、歩いてきたら困る。集団で行っちゃうと、もう、止まらないからね。
この頃は、原発のことも、ぜーんぜんわかんない。
三月一二日
私らは、トラックに乗って朝までいて、朝七時になったから、「腹減ったなぁ、じゃ、集会所に行ってみるか、食べ物あるかもしんない」って行ったの。そうしたら、「ここ(山田集会所)からも避難するんだよ」って言われた。あと一〇分遅く行っていたら、もう誰もいなかったかもしれない。
「避難しろ」って言われたけどね。お隣のお母さんに、「誰か乗せてってくれる車探したの?」って聞いたの。そしたら、「いいえ、知りません」って他人事みたいに言うの。だから、役場の人に、「あのお母さんのところ、六人は乗ってく車が無いから、なんとかしてくださいよ」って、頼んで。で、私はもう、家の牛小屋に戻ってしまった。
牛に餌をやって、それから避難したから、朝一〇時くらいだったかな。役場の人には、「一〇キロ圏外に行け」って言われたの。「双葉町民はみんなで川俣に行く」って言われたね。でも、川俣まで行ってしまったら、私ら、帰れないよ、遠くて。避難するってその時は、「お父さん、行ってもさ、心配かけないように顔を出しとけばいいんじゃない? でもすぐ帰って来なきゃ、牛に夜のご飯やらなきゃならないんだから。顔だけ出しに行こうよ」っていう感じ。
二八八号行った人はいちばん安全だったよね。私らは、一〇キロ圏外に出ればいいんだったら、津島の方に行こうって。羽鳥に抜けてそれから一一四号に抜けて、津島に行ったのね。一〇キロ圏外だから津島の方でいいだろう、っていう風な感じで行った。浜の人たちも、そっちに行ってたから、羽鳥のあたり、ずーっと渋滞してたからね。
渋滞の中で知り合いがいて、その人が「浜がなくなっちゃったよ、流されちゃったんだよ」「おれはどこどこの人を助けて来たよ」ってね、そんな話をして、それで初めて津波がわかったの。全然、津波なんて知らなかった。原発のことも、全然わかんない。ラジオを聞いたりすることも無かったの。
津島のあたりで、「お父さん、浪江の人いっぱいいるから、このへんで泊まろう」って話していたら、一一四号線を、双葉の人が通りすぎるわけ。私らよりも出発が遅い人、いっぱいいたからね。だから、その人らに、「私はこれ以上避難しないから、津島にいるからって言ってね、誰かが心配してたら言ってね」って何人もの人に言ったの。二本松、郡山、福島、みんな行こうと思えば行けるからね。でも私は遠くへ行こうとは全然思ってない。
津島に着いたのは、午後二時ごろだったと思う。朝ごはんも食べてなかった。無いんだもん、食べる物が。私ら、お菓子とか食べないのね。だから、家に無いのよ。果物も無いし、食べる物は米しか無いの。ガスはあったけど、ガスでご飯炊いて食べるなんていうどころじゃないわ。牛をどうしよう、ってそれしか考えない。
夕方、炊き出しをもらった。浪江に知っている人がいてその人が、「おれのとこに来い、どこにも入れないから」って言って、避難所の一区画に連れて行ってくれて。津島高校(県立浪江高校津島校)の体育館の、自分のいる場所に座らせてくれたの。
あそこで泊まった双葉の人もけっこういる。津島の民家にはすっごい人ね。たぶん、親戚の人たちなんだろうけど、道沿いにある家は、ごっちゃごちゃ。通りも車だらけ。人だらけ。下って来る車は一台もいなかったから。上ってくのしか。でも、二車線で走るわけにはいかないから大渋滞していた。
地震のあとすぐ電気が来なくなったのは、うちの集落の、何軒か。大熊から電気が来ている家は停まっちゃった。双葉から電気が来ている人は点いてんだよ。だから、私ら、そんなに深刻だと思ってない。双葉の人は、そういう意味で、情報をちょっとは知っていた。だって、テレビだってなんだって、見れたもんねぇ。ただ、うちと隣の家は、大熊から電線が来ているもんで、なんにもわかんなかった。大熊側に行ったらずーっと電気点いてないもの。ずーっと電気点いてなかったねぇ。けっこう遠くまで行ったんだけど、電気がついてなかったよ。
大熊の少し離れた隣の家、発電機回して家の中照らしていたんだよ。他の家みんな電気停まってんだから。その家は東電の子会社に、孫だったか、いたんだよ。危ないと知っていたらとっくに避難していたと思う。だから、東電の状況、知らなかったんだろうね。
一二日は暗くなってから東電の制服着た人が、高校の避難所の中を、家族を捜して歩ってて、「メルトダウンしてんだ、こんなとこにいちゃいけないんだ、早く逃げろ」って誰に言うともなく言って歩ってたよ。このときはじめて原発が危ないんだって知った。東電の制服だっていうのは、私ら、毎日見て、知っているから。その、「メルトダウン」っていうのを聞いて、私は体育館にあるパソコンを見ていたの。いつ爆発するか。爆発したら大変なんだよ。
私を津島の体育館に連れてってくれた人がそれを聞いて、「もう逃げなきゃ、爆発する前に逃げなきゃなんない」「でも油(ガソリン)が無い」って。「山形だか新潟まで逃げるから、一緒に行こう」って言われたの。だけど、私は「牛がいるから、これよりは動かないから」って。お父さんと二人で坂を下っていけばさ、ガソリンが無くても、どっかで車が動かなくなったらそこから歩いてでも家には行ける。その頃、遠くへ逃げるっていう考えは全くない。
爆発する寸前にパソコンがなくなった。隠された、っていうかね。学校のものだったんだと思うよ。「あら、パソコンがなくなったね」と思った頃に、「屋内退避、外に出ちゃいけませんよ」って言われた。一二日夜。「絶対出ちゃいけませんよ」って言われて、扉きちんと閉められて。
2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!