一週間 ――原発避難の記録 第5回

鵜沼久江さん(双葉町細谷熊沢)

三月一三日・一四日

 この日、浪江の大堀の友達に会ったのね。その人の家から東電の煙突がまっすぐ見えるの。自宅に戻ったとき、「『ドーン』と音がしたから見たら、キノコ雲が『わー』って上がってな」っていうのをね、あとになって、話してくれたの。
 津島での炊き出しは高校の避難所の中じゃなくて、別なところでやっていた。少し下った直売所と、その向こうの給食センターで。私らがいたのは山の上の高校だったんだけど。
 その友達の旦那さん、脳梗塞やって大変な人だったのよ。だから、炊き出しのある近くに連れてったの。とにかくここの中に入って、そのうち、場所が空いたら動くんだよって。「鵜沼さんも来て」って言われたけど、「私のところ、五人もいるから、場所が無いから、いいよ」って三人押しこんだんだよ。私の方が早く避難したから、そこら辺はわかっていたのね。
 でもね、私らのとこ、こんな小さいおにぎり一個と味噌汁とかだけだった。でも、直売所と給食センターでは、食べ物いっぱい配っているから、私ら、並んだの。そしたらば、「ダメです、ちゃんと整理券持っている人でなきゃダメです」って。そこにいる人は食べさしてくれるけど、高校にいる人は食べさしてくんないの。だから、私、一二日は食べたのおにぎり一個くらいだねぇ。でもねぇ、お腹すかないの。全然お腹すかなかった。
 浪江の、体育館に入れてくれた友達が、「買い出しに行くから行こう」って言うの。「これじゃあ生きていらんないから」って、お父さんがその人の車で連れてってもらったのね。だけど、お父さんが買ってきたのは、牛に水持って行くバケツ。飯舘(村)のほうににコメリ(ホームセンター)があったんで、みんなはそこで食料買っているんだけど、「おれは財布に金があるだけ牛に水持ってく」って言って、バケツ四つ。ナイロンの袋と、ヒモと。
 戻ってきてから、「おれは牛のバケツ買ってきた」「うんうん、そう、そうだね、水持ってかないと無いからね」って。私ら、それしか考えてないもん。自分の食べる物よりも牛のこと。
 それを見かねて、隣の人が「食え」って言って、惣菜とかお菓子とか買ってきたんだよね。だけど、お父さんは、おにぎりこんなちっちゃいの二個だけ、二人分で二個だけもらってきた。別にお菓子食べたいとも思わなかったの。
 まだその時点では、家に戻る気満々だったんだけど、みんなの噂でね、「バリケードあって、もう誰も入れないんだから、泥棒なんて行けないんだから、人っ子一人入れないんだから」って言われていた。一二日のうちだと思うよ。町の中空っぽじゃん、みんな。大熊も双葉も浪江も。だから「泥棒さんは自由に出入りするんでしょうね」なんて私ら言っていたの。そしたら、「バリケードがあって、もう絶対入れないから」って。「自衛隊が来てから、あの人達がみんな、道っていう道みんなふさいでいるから入れないんだわよ」って言われたんだよ。みんな、泥棒の心配していた。だって、着の身着のままだったし、毛布持ってきた人はまだよかった人だもん。
 結局バケツは積みっぱなし。バリケードで入れないっていうのを言われたから。おまわりさんに、「どうしても牛が死んでしまうから帰んなきゃいけない」って言ったんだ。「なんとか、通行証欲しいから、とにかく、もうこっちに帰って来なくていいから、行くだけの通行証欲しい、許可だけ出して下さい」って頼んだの。でも、そんなの、もちろん出せないわね。「僕はどうしようもないですからね」って言われてさ。「行けるところまで行ってみるか」って少し下がって行ったら、昼曽根の手前かな、自衛隊がさ、みんな止まっているんだよね。昼曽根から、相馬に抜けられるじゃない。あのトンネルも越えられないんだよ。みんな、あそこでたまっているんだよ。「なーにしてんの、この人達は」って。「こんだけ自衛隊の人がたくさんいてはやっぱり無理かも」って思って。防護服を着た人。パトカーでは無かった。とにかくなんて言ったらいいか、あっちこっちで通行止め。津島の仮設の派出所にも防護服の人がいたんだ。

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

 
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