一週間 ――原発避難の記録 第6回

澤上幸子さん(双葉町下羽鳥)

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双葉町の社会福祉協議会で働いていた最中に被災。その後、高齢者の搬送等を手伝っていたためすぐには避難できずにいた。14日の3号機爆発後に愛媛に向かい、現在も愛媛県に避難をしたまま、全国の避難者支援活動を行なっている。

インタビュー/構成 吉田千亜

 

3月11日

 速報が鳴って、「ピリピリ言っているね」と同僚と話しているうち、5秒くらいで大きな揺れに襲われてね。双葉町の社会福祉協議会の建物の中にいました。双葉厚生病院の隣のヘルスケアーふたばの中に事務所があるんです。
 社協の部屋の物は倒れて、何かが割れて、人はキャーキャー叫んでいるし。その施設には60人くらいの高齢者がいたんです。
 建物の中にいたら、潰れてしまう、と思って、建物の庭に出て、その後、駐車場に移動したら、停めてあった車が跳ねているみたいだった。隣に公立双葉准看護学院があったんだけど、その学校からも学生さんがワーッと外に出てきて、みんな若いから、情報が早くて「携帯に書いてあります!」って教えてくれて。

 東北の人はわかると思うんだけど、冬は、サイドブレーキをかけない車がけっこうあるのね。凍っちゃうから。だから、車が跳ねるし動く。バスもすごく動いていて、社協の事務局長のIさんに怒られて「危ないから中に入れ!」って。
 「澤上さんは、2階のデイサービスの人たち見てきて!」って言われて、デイサービスのところに行ったんだけど、みんな怪我をしてはいなくて、「大丈夫ですよー」って言っていて。もしかしたら、何が起きたのか、わかっていなかった人もいたかもしれない。

 すぐに家族に連絡をしたんだけど、電話が繋がらなくて、不安で。Iさんに、「一回家に帰らせてくれないかな、お母さん見てくるから」とお願いしたの。
 そうしたら、Iさんは、職員を集めて、
「家族と連絡が取れない人は、帰っていいよ。だけど、きっと、ここ(社協)には避難者がくるし、大丈夫な人は戻ってきてくれませんか」
 ってお願いしていた。
 私はすぐに車に乗って、家に向かおうとしたら、駐車場の入り口のバーが下がったままで動かなくて、ぶち折って出て……。でも、国道6号に出るまでの小さい道が崩れていたから、車を駐車場に戻して、走って帰ることにして。

 家は山の方なんだけど、20分かけて走って帰ったら、お義父(とう)さんが仕事、休みだったの。お義母(かあ)さんも大きいおばあちゃんもいて、双子の3歳の子どもたちも大丈夫だった。家も壊れていなくて、「ああ、大丈夫だった」とほっとしたら、さっき、Iさんが「戻ってきて」と言っていたことを思い出したの。
 そうしたら、それを察したのか、「さっちゃん、やることあるんでしょー」って、お義父さんが言ってくれて。
 実は、地震が起きたのは午後2時46分だけど、3時に訪問する約束のおじいちゃんがいて。そのおじいちゃん、海のそばの人で、一人暮らし。入浴介助をする予定だったんだけど、私が来るのを待っていたらどうしよう、って顔が浮かんできてね。それで、職場に帰ったの。お義父さんの車で社協まで送ってもらって。
 到着して、社協の3階の窓から、みんなで、津波を見たの。町の防災無線では、双葉町社会福祉協議会は避難所として広報されていたから、どんどん避難してきていて、人でぐちゃぐちゃだった。だけど、私たちが日々会っている高齢者、気になる人が来ていないの。
「待っているだけでいいんかい、助けに行ったほうがいいんじゃないか」
 ってIさんに言って、職員10人くらいで手分けして、心配な人の家を1軒1軒、暗くなるまで訪ねて行ったのね。
 倒れちゃって血を流していた人もいたけれど、案外、ちゃんと避難をしていて。暗くなって、社協に戻ってきたのが、夕方5時半くらいだったかな……。道がガタガタになって車が使えなくて、人を運ぶ時だけ使う、という感じだった。
 地域の消防団の人たちも、動き回っていてね。その人たちに助けられた人もたくさんいた。10個くらいの分団があったのかな。

 その後は、避難所のお手伝い。津波で流されたけど、消防団の人に助けてもらった人たちの手当て。びしゃびしゃに濡れていているから、服を着替えさせて。でも鼻も口も砂だらけになっていて。
 温めて、話し相手になるんだけど、精神的にきつかった。その日、卒業式だったのね。一緒にいたのに、自分の子が目の前で流されてしまって。知っている人だったんだけど、いつもと全く違う取り乱しかたで、いつものあの人が、こんな風になってしまうんだ、って。その人は、すごく自分を責めていた。その人のことは、ずっと覚えている。今、どうしているかな。
 あと、老夫婦がね。おじいちゃんが寝たきりで、おばあちゃんがお世話をしていたんだけど、玄関ぎりぎりまで水が来てしまって、ガラスも割れていて。「おじいさんと死ぬから、帰ってください、迷惑かかるから」ってずっと言っていて。でも、運んだよ。「せんだん(介護施設)」に運んだ。

 夜になって、炊き出しをしたほうがいいね、っていう話になって。避難所運営のマニュアルとかないからね。わからないの。とりあえず自家発電で電気確保して、井戸水をくんで近くの人から米をもらって、おにぎりを作って。双葉町の公民館に配りに行ったんだよね。
 もう「避難所」って言っていいのか、とにかく人を詰め込んで。双葉町役場は、社協の中に災害対策本部を作るって言っていたから、機械とかもワーッと運んできていて。

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

 
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