一週間 ――原発避難の記録 第5回

鵜沼久江さん(双葉町細谷熊沢)

三月一五日

 今度は「ここ(県立浪江高校津島校)を出てください」って言われたの。「ここにいちゃいけないから、今度は二本松に行きます」って浪江の役場のひとに。で、私はとにかく動きたくないから、「トイレ、私も掃除します」って言ってギリギリまでいたの。とりあえずもう、そこにいる時間を長くしよう、長くしよう、っていう。隙があったら、帰ってやる、と思って。
 結局、「何があってもこれ以上は双葉方向には行けないんだから」「ダメです」って追い出されてさ、「じゃ、しょうがないから、二本松のほうに行ってみるか、ガソリンは無いし、山を下ったら、上るガソリンは無いんだから、もう、しょうがないから行くか」って、行ってみたの。
 出発したのは午前中かな。とにかく明るいうちに二本松の針道にある役場に着いたんだよね。ここら辺が記憶……わかんないんだ。日にちと時間がぜんぜんわかんない。どうしても帰りたいから、なんかの隙を見つけて帰らねばと思っているから、これで、牛に餌をやれなくなって三日目だ、もう水が限界だ、って。ちゃんと、それだけは数えていたから、日にちとか時間は数えてない。今日で何日目だ、って、数えていたからね。夜もどうやって過ごしていたんだべね。

 その、針道っていうところに行って、廃校になった学校の体育館に行くようにって言われて行ったんだけど、そこに行ってもらったのが、おにぎり一個。三食来たんだけど、一回がパン一枚だけお父さんもらってきたのね。で、これは、半分ずつだ、って。薄いパン。
 それで、自主的に食事を作るようになったの。鍋とか野菜とか持って来てくれた人がいたのね。で、「ガスが無きゃ食事も作れねぇべ」って、その人は料理できる道具を揃えてくれたの。市議会議員の人だったよ。有難かったよねぇ。おにぎりだって、あの、かたーい、つめたーくなったのしかないんだもん。野菜は来たし、味噌は来たしね、これで、このおにぎり使って、雑炊作ってやったら、みんなどんなにあったかいんだろうかって思ったの。包丁が無い、まな板ありません、って言って、その市議会議員の人に言って、持って来てくれたんだよ。それで野菜刻んで雑炊作って、食べさせたよ。私一人で始めたら、ぽろぽろ手伝ってくれる人も出て来てね。避難所には、六〇人か七〇人くらいいたと思うよ。子どももいたよ。浪江町役場の人たちと一緒に動いていたんだけど、次はどこに避難になるかわからないって思っていた。

 

三月一七日

 双葉の人から、「今度埼玉に行くことになったけど、おまえらどうすんだ」って連絡が来たの。たまたま携帯が通じるところにいたの。「とにかく、みんなのいる川俣まで行く」って。双葉町の牛、畜産農家の人、補償問題とか、いろんなことが起こるだろうから、って。お父さんが双葉町で唯一の畜産の役員だったんだよ。それが無かったら、たぶん、アリーナには行かなかった。「お父さんはそれをやらなくちゃいけないから、行った方がいいんじゃない」って。
 だから、二本松には、一七日の朝までいたのね。で、二本松から、川俣に行きたいんだけど、ガソリンが無くて、うちの車動かせないって浪江町役場の人に言ったら、「連れてってあげる」って言ってくれて。
 私は「双葉の牛をこれからどうしよう」「双葉町の畜産農家の人、どうやって今後の生活やり直してったらいいのかな」って、それを考えたんだね。だから、「放射能が危ない」とか、この頃は、まったく考えていなかった。考えてないから、東電のすぐそばに牛放して東電のすぐそばから草を持って来て喜んで。いろんな人がバスで東電見学に来るのね。みんなうちの牛を見ているわよ。「あぁ、のどかなんだな。安全なんだな」っていう一番のアピールだったんだなって、私はそう思った。

 川俣に着いたのは、一七日の夕方。浪江町の役場の方に送って行ってもらった。集合は、川俣の、みんなが避難していたところ。私、よく覚えてないんだけど。役場があったところ。カップラーメンとか物資が色々あった。「スクリーニング(汚染検査)受けて来て」って言われて、受けたけど、異状なしだった。それで、避難所に入れてもらって、みんなと一緒に埼玉に行けることになったんだけど。
 避難所に二泊して、一九日の朝に川俣のバスでみんなで行くことになってね。
で、双葉の職員に、「鵜沼さん、牛は連れて行けねぇぞ」って冗談半分に声をかけられたの。そうしたら、お父さん、怒ったね。いきなり怒った。今の伊澤町長に、「鵜沼さん、冗談もわかんねぇの」って言われた。私は冗談だってわかっていたけど、お父さんは頭が混乱していたんだろね。その人はいつも冗談を言うような人だから、普通だったら受け流せるだろうけど、お父さんは「ぶんなぐるぞ、この野郎!」みたいなかんじだった。

 アリーナにみんな行くって聞いたから、アリーナに行けば、きっと双葉で牛を飼っていた人たちにも会えるから、みんなの状況聞いて来なくちゃいけない。私らは一二日から避難したけど、他のみんなはもう少し双葉町にいたかもしれないから、どういうふうに牛を置いてきたのか、水は飲ませられる状態か、とか、聞かなくちゃいけない。アリーナに行ってから、捜して歩いて、聞いてまわったよ、牛飼っていた人みんなに。放射能で死ぬっていうことは考えなかったけど、ストレスで死ぬことはよく知っていた。
 あの頃は、牛のことで頭がいっぱいで、余裕が無かったなぁ。

 

三月一九日

 一七日に川俣行って、一九日の朝、バスでアリーナに向かって。私らは遅い方の組だったと思う。お昼は食べなかったなぁ。夕飯は弁当が出たんだね。
 驚いたのが、ボランティアの人、すごかったね。「いやぁ、こんなに人いるもんかな」って。双葉の人だけで驚いているのに、自主避難の人もいたでしょ。あんなに人を見たことないよ。双葉町に住んでいたときは、一日に一人で、うちにいたら人に会わないもん。郵便屋さんだって毎日は来ないし。
 弁当は、下まで取りに行くくらいのことは自分でしないと、って思った。だって、弁当配達に来るんだよ。駅弁みたいに持ってくんの。あれ、親切はいいけどね……。あと、掃除。自分のいるまわりの掃除。みんなボランティアがやるのね。あれは良くない。私は、体動いてないとダメだから、そう思ったのかもしれない。どこを見てもみんなこう、腰かけて弁当食べてさ、あと、回収に来てくれてさ。ようやく行くのはトイレ。トイレは自分で行かなきゃいけないからね。それから「洗濯ものはやってあげますよ」って来て。せめて自分の食べる物を、五階にいた人も四階にいた人も、階段上り下りは大変だけど、あれをやらないと、やっぱり体がおかしくなるわね。
 その頃は、どんなことをテレビでやっていたかぜんぜん知らないじゃない。私ら、全然見てないんだから。爆発したのは、なんとなく知っていた。あの一回目の爆発しか記憶にない。
 その頃になると、牛死んでいるな、って思っていた。死んでいる今は行きたくない。死んだのも見たくない。見たくなかったね。
 戻ろうっていう気は無かったね。ぜんぜん。いつくらいまで避難が続くとか、いつになったら戻れるとかっていうのも……全然、無い。でも、「明日帰れ」って言われるかもしれないというのは、常にあったね。だって、テレビで見ていても、そんなに放射能長いこと逃げてなくてもいいんだもんね。半減期八日(ヨウ素131)だって。八日だっていうと、いつまでこんなところに逃げてなきゃなんないの……って、わかんなかった。
 とにかく、「ここにいちゃいけない」「ここにいちゃいけない」って追っかけられるように、毎日毎日移動していたからね。三〇キロ圏内から出てください、ってどこまで行ったら三〇キロなんだかわかんないもんね。しかも、直線で三〇キロっていうんだからね。道路を走って三〇キロなら想像はつくよ。そうじゃない。
 アリーナでは、具合が悪くて。人が多くて空気のよどんだ所にいたことがないから、熱が出て寝込んで。お父さんに、外に行かなけりゃだめだって言われて連れて行ってもらって。

 みんな、「ここにいつまでいるんだろう」っていう感じだったね。「いつまでいるんだろう」が、しだいに「いつ、帰れるんだろう」に変わった。「いま四月だから、六月には帰れるかな」、その次は「お盆までには帰れるよな」、その次は「お正月までには帰れるよな」っていう……一時帰宅が始まるまでは、いつ、それこそ、「明日帰れ」って言われるか、そういう感じだったね。
 私は、戻れないから戻らないんじゃなくて、戻りたくない。やっぱり牛だよね。あの牛舎の中、死んでいった牛の光景、忘れたくても忘れられない、頭からはなれないというか。でも、こっち(埼玉)に定住っていう感じでもないんだよね。皆さん、定住って言ううけど、定住っていう感覚はないのかな。自分的にはね。

(第5回 了)

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

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鵜沼久江さん(双葉町細谷熊沢)