一週間 ――原発避難の記録 第6回

澤上幸子さん(双葉町下羽鳥)

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3月12日

 もう朝の6時くらいから、町内の公民館に車でおにぎりを配って回って。明るくなってから、海の近くまで行ってみよう、と思って、行ったら、津波の被害を見て、「うわー、これはひどい……」って思ったよね。
 社協に戻ると、たくさんの避難者がいて。地震当日にデイサービスに来ていた高齢者はそのまま残っていて迎えに来る人はほとんどいなかった。たぶん、「ここにいれば安心」って思っていたのかな。
 その頃、防災無線で、「避難できる人は西の方へ避難して」って言っていた。○○町、とかは言っていなくて、「原子力なんとか○条により」「ベントします」って。「身体に害はない範囲の放射能を空気に出します」……みたいなことを言っていて。何言ってんだ?って思っていた。

 昼前には、防護服姿の警察、自衛隊の人が「避難してください」って言って回っていた。でも、避難したくても避難できないし、何を質問しても答えてくれないの。
 バスとかタクシーが来て、「みんな避難するぞ!」っていう感じなんだけど、でも、乗る側は「どこに行くんだろー?」って言いながら乗っていった。とりあえずここを離れるみたい、という感じ。
 そのうちに、だんだんバスが来なくなるの。「あれ?バス、こなくなった?」って。それで、自衛隊の人が「ヘリで高齢者を運びましょう」って言って、双葉高校のヘリポートに社協のワゴン車で運び始めたのね。身体が動かない人、車椅子の人。デイサービスに来ていた車椅子の人は、20人くらいいたのね。ああ、こういう人たちが取り残されてしまうんだな、って思っていた。
 1回に3〜4人くらいしか運べなくてね。2往復くらいしたころに、爆発音がしたの。双葉高校で、車椅子のおじいさんを運んでいる時に、ズン、って音がした。
 一緒に運んでいた人に、「橋が落ちたのかな?」って言ったら、「いやー原発爆発したんだべ」って言うの。「うそだぁー」って、ヘリにおじいさんを乗せ終わって、車で社協に戻る途中にラジオをつけたら、そんなことを言い始まってね。
 そうしたら降ってきてね、黄色いわた。白い破片。それを見て、あー、爆発したんかなー、って思った。わたのような軽いものが、ふわふわと。
 私はとにかく防護服なんてなかったから、雨合羽を着ていたの。わたが降ってきたとき、その場所だけ溶けて、「わ!」って思ってはらったのを覚えている。車は真っ黄色になっていた。
 そこから、怖くなった。広島の原爆のことを思い出して、外にいるから私は死ぬのかな、って思って、自衛隊のヘリも来なくなって、社協に戻ったら、「窓には近づくな」って役場の人は言って。その人は防護服を着ていた。
 双葉厚生病院の看護師さんは、外で半袖で、高齢者の搬送を手伝っていたけど、泣いていたよ。被ばくの知識があったんだろうね……。精神科の人たちもバスに乗るために外で並んでいたし。
 そのあと、うちの家族どうしたかな、と思って。夫には11日には会っていなかったから、生きているかな、と思って。町に人がほとんどいなかったから、猫に餌をやりたい、っていう職員と一緒に車で家に戻ってみたら、誰もいなくて。犬と猫だけ。家族はどこへ行ったんだろう、って不安になった。どこかへ行くなら、社協に寄って、一言教えてほしかったな、って。犬と猫には、餌をいっぱいやって、放してあげたの。この時は、3日くらいで帰れると思っていた。
 不安なまま、社協に戻って「私らどうしようか」って相談になって。職員が3人ずつ高齢者を自分の車で運べば、川俣町くらいに行けるんじゃないか、っていう話になって、夕方の6時くらいに双葉町を出た。このころ、双葉厚生病院にはけっこう患者さんがいた。「せんだん(介護施設)」に10人くらいいたかな。所長は中で、心配そうにウロウロしていた。
 私は職員の人と、社協の鍵をしめて、最後に出た。

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

 
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