一週間 ――原発避難の記録 第6回

澤上幸子さん(双葉町下羽鳥)

3月13日

 5〜6時間かかって、川俣高校の体育館に到着したのかな。真夜中に着いたの。国道114号、渋滞していて、デイサービスのじーちゃんばーちゃん、よく我慢してくれたなーと思って。
 車の中で、「戦争思い出したー」って戦争の話をしてくれていた。励まそうとしてくれていたんだけど、私は、口の中が変な味がしていて、水も持っていなくて、降った放射能の影響だったとしたら、口は開かないほうがいいのかな、私、しゃべらないほうがいいのかな、っていろいろ心配していて。
 孫の話をしてくれた人もいたのかな。じーちゃんばーちゃん、運動させたほうがいいかな、と思ったけど、そんな余裕もなくて。水も食べ物も何もなかったのに、文句も言わずに本当にありがとう、って思った。

 Iさんが体育館の真ん中に陣取ってくれていて、真ん中に認知症の人を眠らせて、職員がその周りをぐるりと囲んで……という感じだった。オムツと、栄養補給飲料はたくさん持ち出していたんだけど、オムツ替えをどうしたらいいか、って本当に困った。
 川俣の体育館は、仕切っている人も誰なのかわからないし、人でいっぱいで、「人を踏まない」というのが最大の目標だった。
 食料が配られて、食パンなんだけど、高齢者は食べられないのね。

 昼前くらいに、夫が捜しに来てくれたの。夫と会って、張り詰めたものがはじめて解けて、「あー、生きていたんだ」って思って。涙腺が崩壊して。夫は、
「あなたの性格上、ここから離れられないのはわかるけど、避難しましょう」って言った。

 Iさんにだけ、「避難します」って伝えて、みんなを裏切るような見捨てるような気持ちで川俣町を出ました。その時、Iさんから、「双葉を出るには、スクリーニングをしないと出られないから、二本松市でやっているから、そこでスクリーニングしてね」って言われたの。
 それで、二本松市にある、福島県男女共生センターに、夫と私と、社協のAさんと一緒にスクリーニングに行ったら、ピピピピピピピピ、ってすごく音が鳴って。「どこにいましたか!?」って聞かれて。「単位を変えて測定します」って言われて。
 服と靴を処分してくださいって言われたんだけど、新しい服もないのに、何を着ろっていうのかな……って。車の中も、私とAさんが座ったところだけ、ピピピピピピって鳴って。
「あの爆発の時に外にいたからだよね」って話した。
 夫は、不安がらせないように振舞っている感じだった。放射性物質はどうやったら取り除けますか?って聞いていて。ホコリみたいなものだから、コロコロで取ったらいいのかな、って。夫は、私を見捨ててきた罪悪感があって、先に避難してまだ私が残っていたって聞いて、「申し訳ない」って思っていたみたい。置いてきてしまってごめんなさい、ってずっと言っていたから。誰よりも先に避難していると思っていた、って言っていた。

 大玉村のSUPER CENTER PLANT-5(スーパーセンタープラントファイブ)にある服屋さんで服を買ったんだけど、電気がとまっているから、レジは外で、電卓で打っていた。服は買ったけど、子どもたちは抱っこできるのかい、風呂に入りたい、って思っていて。
 いわき市の夫の親戚の家にみんな避難していたから、そこへ行って、井戸水でお湯をわかしてくれて、子どもたちに会ったら、いつもと同じ笑顔で、涙がわーっと出て……。
 地震直後の子どもたちは、地震のショックでおばあちゃんの手をギューっと握って、身体もカチカチだったの。子どもってこんな感じになるんだな、って。「怖かったんだね、大丈夫だった?」って聞いても、反応がない。ずっと抱きしめていたら、身体の力が抜けてくるのがわかって。「外に出ろって裸足(はだし)で外に出たけど、足が痛かった」って子どもが言って、「ああ、よかった、しゃべったー」っていう感じだったの。だから、いわきでは、普通に元気でよかったな……ってほっとして。
 その日の夜は、ちゃんとしたご飯、ビールもあったけど、味も何もしなかった。その時、お義父さんに、「もう子どもは産まないほうがいいよ」ってダイレクトに言われて、「そっかー」って思ったの。

 

3月14日

 これからどうしようかな……と思っていた矢先に、もう一つ、原発が爆発したの。11時だね。もう6号機まで全部爆発するんじゃないかな、と思って。そうしたら、お義父さんが「もう愛媛に行け、ここから離れろ」って。もう無理だな、と思って。
 夫の妹の子ども、小学4年生と、私たちの子ども2人と、夫と私と5人で羽田空港目指してすぐに出発して。その日は、神奈川に泊まった。飛行機を予約して。夫は、ガソリンが満タンになったら愛媛に行くから、ってそこで別れて。

 

3月15日

 お昼ごろには愛媛に着いて。私と、姪(めい)っ子と子ども2人。変な心境でね。飛行機で瀬戸内海が見えた時、波がなくて、猪苗代湖を思い出して。きれいな街が憎らしい、ってトゲトゲしていたよね。到着しても、私の両親もどこまで聞いていいんだか、と迷っていたみたいで、でも、無理に聞かないでくれて嬉かったし。
 買い物に街に行くんだけど、人が笑いながら買い物をしているのを、受け入れられなくて。離れれば離れるほど、家族も残っていたし、一番の親友も行方不明のままだったし、ずーっとテレビを観ていて。
 彼女は、原町から双葉町に通っていた人で、2歳の子と6ヶ月の子のお母さんだった。四十九日のころに、DNA鑑定で見つかるんだけど。会社の人は止めたんだよ。「保育園に連絡がつかないから、迎えに行く!」って。「待っていろ」って止めたんだけど、浜街道(海沿いの道)で渋滞にはまって、津波に巻き込まれて。ずーっとその子のことは今も残っている。避難指示がなければ助けられたのかな。携帯水没していなかったから、生きていたのかもしれない、翌日行けば助けられたのかもしれない。
 だから、NPO(避難者支援活動)をやっているのかな。その子のことがあるからかな。ドリカムの歌が大好きな人だったから、曲を聴いたら思い出すよ。
 ソフトテニスのサークルで友だちになったの。私は愛媛から嫁いできたから、周囲に長い友だちはいなかったけど、その子とはすごく仲良しだった。テニスがすごく上手で教えたりもしていたから、その子を追悼して「香菜子杯」っていうテニスの大会が原町にはあるんだよ。

 

3月中旬〜下旬

 周りが普通なことへの違和感が本当につらかった。笑顔に耐えられない感じ。福島に家族を残してきて、避難所には職場の人、利用者さんを残してきて、私は愛媛にいて、その環境の中で、見捨ててきてしまった、っていう気持ちがずっとあった。
 家に帰れるのかな、っていう心配もあった。通帳、印鑑、写真はそのまま置いてきたし、4月から双子の子どもたちは幼稚園だった。行けるのかな?って。姪っ子の小学校もどうなるのかな、って。
 夫はガソリンがずっとなくて、有明から徳島行きのフェリーに乗って、徳島で満タンにして、3月17日くらいに愛媛まで来てくれた。

 4月になったら双葉町には入れないぞ、っていう噂が流れて、必要なものを取りに行ったほうがいいってことで、夫と2人、車で18時間かけて家に行ったの。その時に、夫の両親と妹には会ってきた。
 気になる場所に寄ってきたんだけど、「誰々さんの家にいます」とか、張り紙のある家がけっこうあって。防護服もなかったから、捨てられる服で行って。
 飼っていた犬はいたんだけど、猫はもういなかった。

 双葉の海岸はすごくきれいでよく行っていた。テニスコートは、工業団地の中にあるんだけど、思い出の場所。
 双葉町に来た時、何も町のことを知らなかったから、町のことを知りたくて、商店街で買い物をしていてね。林肉屋さん、わかば薬局とか、懐かしいな……。嫁いできたころ、保育園で働いていたんだけど、林肉屋さんは保育園の給食の材料を配達してくれていて。焼肉をやる前日は生レバーを買いに行っていたな。手のひらサイズのいい町なんだよね。桜も、お花見に行かなくても、日常で見られるような。そんな町だったな。
 今は、家の周り、田んぼを町に貸していてね。鉄板敷いちゃって、解体したものや汚染したもの、線路とかを置いていて、それを見たら落胆しちゃった。

(第6回 了)

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

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