一週間 ――原発避難の記録 第7回

岩崎秀一さん(福島県富岡町小良ヶ浜)

三月一二日

 この日の朝のことは忘れられないです。朝の6時前に、役場職員の車か消防団の車が体育館に来たんです。で、「ともかく避難してください」「西の方に避難してください」……詳しい説明無かったんですよ。
 今度は役場職員の方がみなさんに伝えるじゃないですか。「避難指示出ましたから避難してください」って。ご自身の車で行かれる方はともかく川内を目指して行ってくださいって。で、足がない方はバスをまわしますからバスが来るまでここで待っていてくださいって話だったんですよ。それで、少ししてからバスが来たんです。みなさんわりと冷静に車で避難していきました。私は体育館からみなさんを出し、駐車場までの誘導をして。
 東京電力の社員だった親御さんは、この日に迎えに来ました。あとから聞いたんですけれども、東電の吉田所長さんが「技術者じゃない人はもう帰れ」って帰したじゃないですか。「もう危ないから」って。その技術者じゃない人だったので迎えに来られたんです。
 11時半に全員の避難を完了して、もう1回校舎戻ったんですよ。で、鍵全部閉めて。いつもの教頭の仕事をやって、施錠して、体育館も全部見てまわって施錠して。それが11時半過ぎですよ。先生方にも「お疲れ様。じゃあ、月曜日8時に来られる先生は来てね」って話した。月曜日までには戻ってこられると思っていました。一時的なものなんだろう、と。
 ともかく色んな情報が飛び交っていて。ある方は「原発が問題じゃねえか」と言っていたんですけど、詳しい話は聞かなかったんです。だから原発の「げ」の字も無かったですし。原発に同級生勤めているんで地震があったら必ずスクラムするからと。原子炉は自動停止しますから安心なんだと。津波で電源喪失とは考えてなかったですからね。でも、「原発が事故起こしたみたいだ。原発大変なことになっている。こりゃ危ねえぞ、とにかく被ばくする」と話している人もいました。
 『戻ってこられるんだろうな』と思ったんで着の身着のままで、午後になって、何も持たずに気軽な気持ちで川内まで行って。渋滞はしていなかったんですよ。それで、川内着いた時にラジオで聞いたんですよ……1号機が爆発したって。
 川内行ってからは、家族捜したんですよ、歩いて。川内中学校から川内小学校歩いてずーっと行って避難者名簿をこう見て。うちの家族はいないということがわかって。で、かわうちの湯まで戻ってきて、川内の村営の体育センターに行ったらば入れなくて。だから私はあの時車中泊したんです。ガソリンは半分ありましたし、幸い車の中に寝袋も入っていたんですよ。かわうちの湯の近くにコンビニがあったんですね。でも、何も売ってなくて、売っていたのは「でん六豆」1袋。夜のご飯は「でん六豆」でした。
 多分情報が早い方はもう原発が危ないってことわかっていましたから、もうどんどんどんどん逃げてった方もいるんですよ。そんなこと全然わからないので、駐車場空いていたから、「あ、じゃあここに停めよう」って停めて。またその辺ぐるぐる回って家族を捜して。

 

三月一三日

 この日の朝、川内に家族がいないことはわかったのでもう少し西に行ってみようと思って出かけたんです。避難所の名簿を全部調べて……ここにいないってのがわかったんです。
 川内から都路に抜ける途中に、メールがぶわーっと来て。そこに家族からのメールがあったんです。留守電を聞いたら「今船引にいる」って。携帯がつながって、船引町のダイユーエイトで待ち合わせしたんです。
 それで、「どこに避難するか」ってなって、会津に私の妹のうちがあったので連絡を取って、「ちょっとそっちに行っていいか」って話をして。義理の両親と息子を避難所に残して、私と妻と2人で会津の妹のうちまで行って、ここだったら6人入れそうだな~と思って、妹に頭下げて「ここに6人連れてくっから頼むぞー」って頼んで。この日は泊めてもらって。

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

 
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岩崎秀一さん(福島県富岡町小良ヶ浜)