一週間 ――原発避難の記録 第7回

岩崎秀一さん(福島県富岡町小良ヶ浜)

三月一四日

朝早く出て、船引まで行って、義理の両親と子どもを車にのっけて会津に戻ったんです。うちの父はあの時、足腰もちょっと弱っていたんで避難所生活は絶対できないって思ったんですよ。どっかに住まなくちゃいけないよな~って。
 ちょうど会津に戻ってきたのが3号機の爆発した時間。11時頃の3号機の爆発は会津についてすぐ、テレビで観たんですよ。うちのかみさんは、あの映像をテレビで観た瞬間に「これ戻れないわぁ」って言いましたよね。冷静にぽつりと言ったのはうちの妻だけですね。もう、そっから先は家族をどこに避難させるかしか考えてないです。
 それから、この日は、とにかく買い出しです。着替えも下着も何もなかったですから。しまむらに行って。それから、ガソリンがなくなっていたので、入れに行ったんです。6時間並んで入れて2000円分。会津若松のうちの妹の家の近くにあるスタンド。
 14日は寝られなかったんで、会津の甥(おい)っ子や妹と「6人お世話になりまーす」って酒飲んでいましたね。その日の夜だけは、久しぶりにほっとしていましたね。

 

三月一五日

 この日は全部の先生方に電話しまくりましたね。テレビを観た瞬間にもう完全にしばらく戻れないってわかったんですよ。1号機3号機連続爆発ですから。これは学校戻れないなって。でも、先生方がどこに避難しているか知らなくちゃいけないなって思ったんで、電話をしたんですね。携帯に先生方の連絡先は入っていましたから。夜までかかりましたが、全員つながりました。
 パソコンを持っていないから、みんなの連絡先をネットカフェに行ってデータにしたんです。先生方には「子どもたちの安否確認してっか?」って聞いて。児童名簿とか緊急連絡名簿なんて持ってこなかったですからね。そもそも持ち出し禁止だったので、持ち出そうという頭もなかったですし。でも、担任の先生の中には、何人か、親御さんの連絡先が携帯に入っていたんですよ。で、担任の方から親御さんに連絡を取って、「よかったら、この情報を知っているお母さん方に広めてってください」って話になって……。それでも追いつかなくて。それで、PTA会長さんに連絡をして「気軽に安否確認できるサイトを作ってください」と、16日に要請して。しょっちゅう私のところに電話かかってきて、私の携帯がパンクしたんで「早く作って」とお願いしたのは覚えています。
 学校再開するというところまでは考えていなかったんですけど、「学校の仕事はやんなくちゃいけないなぁ」というのはずーっとありましたね。ただ、どんな仕事をすればいいのかなっていうことが見えてこなかった。でも「安否確認」っていうのはずっと頭にあったんで。「どうなってっか」っていう確認が教育委員会からくるはずだってわかってましたんで。

 

三月一八日以降

 この日にはじめて校長先生から連絡がありました。教育委員会から指示があって「人事異動がなくなった」とか「退職者だけは3月31日で退職です」と。あとは「学校は臨時休業。最後に避難した先で転入学手続きを取ってほしいという連絡を保護者にしてくれ」と言われたんですよ。「4月1日から行く学校、今避難している場所から一番近いところの学校に行って話をしてくれ。転入学手続きを取ってくれ」という……。
 さらに、教育委員会から21日に電話がきて、22日に安否確認を報告しなさい、と言うんです。すぐにお願いしていた安否確認のサイトを作ってもらって、そこの情報をネットカフェでプリントアウトしてパーッと見て。あと各担任の先生方も「いつか使うだろうな」と思ったから、電話番号、連絡先も整理して印刷をして。会津ではそんな作業をずっとやっていましたね。

*****

 その後、2011年9月になって、三春町に仮設の富岡幼稚園、富岡第一・第二小中学校ができて、そこで教えていたんですが、「富岡ってこの子たちにとってふるさとなのかな」と思ったりしていました。例えば、震災から6年後にようやく1年生になった子なんか、生まれた時にはもう富岡にいなかった。富岡町民でありながら、三春町の仮設の小学校に来るわけじゃないですか。そうすると、三春町の仮設の小学校が母校なんだろうな、だから、「ふるさと富岡」って言われてもピンとこないだろうな……と。
 三春町の学校の立ち上げは絶対に何とかしないとダメだな、と思いました。絶対失敗させられないと思いましたね。避難をして、ほかの学校に行って苦しくてうまくいかなかった子ども……学校環境が変わり、友達環境が変わり、家庭生活環境が変わり、これだけでもすごいストレスですよね。そういう子どもがここに戻ってこられるように、と思っていましたから。実際にそういう子どもたち、戻ってきていたんですよね。

 

(第7回 了)

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

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岩崎秀一さん(福島県富岡町小良ヶ浜)